
野菊は、可憐で儚い花だ。
しかし、矢島渚男の『野菊のうた』は、凛々しく力強い、大樹のような句集であった。
1
泛子(うき)投げて目をとどかする春夕べ
春の、まだ少しひんやりする夕方に、釣りをしている。しずかな水面に、鮮やかな泛子。
泛子を見ている情景を「目をとどかする」と表現している。なにかを見るというなにげない行為を、眼球を動かし視線を対象物まで持っていき認識するという意志的な行為として捉えているのだ。
自分が自分を動かし統括している。つまり、脳そのものからの視点、というのが面白い。
矢島の句は、抑制された美しさと安定感がある。読者に、暴走して爆発してしまうのではないかというような不要な心配をさせない優しさがあるのだ。
そして、矢島の句には夕方が似合う。
友達と遊ぶ楽しい昼間は終わり、友達とは別れて家路につくさみしい時間。
それでも、家族が帰ってきて集まってごはんを食べ、暗闇で眠るまでのあたたかな時間。
咲き終へて桜は山の木に還る
夕暮はたたみものして沙羅の花
滅びたる狼の色山眠る
夕暮はたたみものして沙羅の花
滅びたる狼の色山眠る
一句目。咲き誇っていた桜の花も散り、ただの木になってしまった桜。「還る」という措辞に、労りと優しさを感じ、あたたかく救われるようだ。この句からも、さみしくあたたかな夕方のイメージを感じ取ることができる。
二句目は少し不思議な句である。内容は、太陽の照っている朝から昼間に洗濯を干して、夕方にそれを取り込んで畳む、ということであろう。それをこのように一句に仕立てるとなんだか不思議な気持ちになるのだ。夕方ではなく「夕暮」であるところが、なんともセンチメンタルであり、「沙羅の花」の清潔な白色が美しく、また、お釈迦様の話や平家物語なども思い起こさせ、家事のひとつである「たたみもの」が神聖なものに感じられるのだ。
三句目。これは冬の夕暮れ全体のイメージのようだ。もうこの世にはいない狼の色をまとった世界。三橋敏雄に「絶滅のかの狼を連れ歩く」という句もあるが、こちらは、実際の狼のかたちが見えるが、掲句は「色」しか見せていない。余計に狼への思いが募るのだろうか。「山眠る」という季語が、静かな情景をありありと描いている。
2
消えながら木魂は秋と思ひけむ (悼 攝津幸彦)
上五の「消えながら」という措辞に、グッと読者を引き込む力がある。秋という季節が、切ないながらも爽やかな情感を添えている。前書きにあるようにこれは、攝津幸彦の追悼句である。まるで故人の息遣いが伝わってくるようでもある。
この句集には、他にも、司馬遼太郎、上田五千石、細見綾子、飯田龍太らへの追悼句も収録されている。筆者にとっては、もう歴史上の人物のような存在であるが、矢島は、彼らと同時代を共にし、彼らの息遣いをも一句に残している。そして、これらの句は、次の世代へも確実にその息遣いを伝えてゆくのだ。
永き日や漱石に髭子規に鬚 (『漱石のカステラ・子規ココア』の著者稔典さんへ)
同じヒゲでも生えている場所によって漢字が違うことを、丁寧に書き分けている。漱石の口髭と子規の顎鬚。永き日という季語が、仲睦まじく楽しそうな情景を見せている。前書きにあるように、こちらの句は、坪内稔典へ贈った句だ。
この句集の中で、前書きのある句は他にもたくさんあるが、前書きをつけるということには、作者が読者を誘導し、読みのぶれを軽減する効果があるだろう。追悼句にしても贈答句にしても、前書きがなくても句を楽しむことができるが、前書きがあれば情景がぶれることはない。作者の思いとともに、句を楽しむことができる。
なぜ、読者を誘導する必要があるのか。
それは、作品のためである。
前書きの有無以前のことであるが、矢島は、作品がどう読まれると最も活きるのか、ということまで緻密に計算しているように感じられる。
無論それはすべて、作者の作品に対する責任からくるものであり、そして、創作に対する信念があるからこそ、のことなのだ。
3
このように、作品をすみずみまで巧みに律する矢島だが、作品のモチーフとしては、自然や生死など、人間を凌駕するものが多い。
やあといふ朝日へおうと冬の海
朝日が冬の海にやあというように照らし、冬の海もおうというようにキラキラと反射させる。朝日と冬の海の交流が、寓話的で楽しく暖かである。この「やあ」も「おう」も、「朝日」と「冬の海」の言葉であって、ただ人間(作者)はそれを見ているだけだ。朝日も冬の海もこちらを相手にしていない。しかし、そのことを作者は悲しんだりはしない。ただそういうものなのだ、ということを知り、受け入れるのだ。
もちろん人間を意識させる句もある。たとえば、
弾の痕どこかにありて熊の皮
切株のまんまるな雪運べさう
草市をさすらひ人のごとく過ぐ
切株のまんまるな雪運べさう
草市をさすらひ人のごとく過ぐ
一句目。べたーっと開かれた熊の皮を目の前にして、大きさに圧倒されるとともに、これは人間が殺したものだということに思い至るのである。
二句目は、切株の上に載っている雪を見て、その丸さの美しさに心奪われると同時に、運べそうだななどと考えている。無邪気な句であるが、人間の支配欲を垣間見せる。
三句目。草市での情景だが、他者から見ると、きっと別に「さすらひ人」のようだなどとは思われていないだろう。ナルシシズムとは人間的なものの象徴とも言えるのではないか。
しかし、矢島の対峙すべきだと考えているものはもっと大きい。
夕立後の茹で上りたる如き街
風蘭や人もかなしくつくられし
流星やいのちはいのち生みつづけ
風蘭や人もかなしくつくられし
流星やいのちはいのち生みつづけ
一句目。強い夕立のあとの街は、むしむしとしていて、たしかに「茹で」あがっているようだ。町ではなく「街」である。ビル街を作ったのは人間であるが、それを茹でてしまったように見せるのは人間ではない。都会にいても、雨という自然の前に圧倒され得るのだ。
二句目は「風蘭」の細やかな花と華やかな香りを感じさせつつ、「人もかなしくつくられし」のフレーズが力強い。だから悲しい、というのではなく、だから強く生きていこう、というメッセージを感じさせるのは「も」にあるのかもしれない。この「も」は、風蘭も人もというより、万物がかなしくつくられていて、人もそうだ、という風に読みたい。
三句目は、上五に「流星」という刹那的なものを置きつつも、永遠を感じさせる句である。一人一人の一生を超えて、「いのち」というものはあり、それがずっと続いていくのだ。
戦争がはじまる野菊たちの前
雪に足踏みかへて待つ死その他
雪に足踏みかへて待つ死その他
一句目、この野菊は、人間(作者)の比喩とも読めるだろうか。可憐な野菊は、戦争を目の前にしてどうすることもできない。そもそも、どうすることもできないことを悲しんだり憤ったりする選択肢すらも持ち合わせていない。ただ、一生懸命咲くだけなのだ。
二句目。きっと、人を待っていたりバスを待っていたりするのだろう。「死その他」という下五にはっとさせられる。「死」がそもそもあってそのあとに「その他」なのだ。我々は、人やバスを待っているときでさえも常に、「死」というものがやってくるのを待っている。我々は、死ぬことにあらがうことはできない。ただ、「雪に足踏みかへ」たりしながら、待ち続けているのだ。
浮寝せん辺りの花を呼びあつめ
このような、自分の力ではあらがえないものに対し、矢島は悲しんだり逆らったりすることはない。それどころか、受け入れて楽しんでいるようである。
矢島はただただ、あらがえないものの存在を知ろうとしているのだ。あらがえないものを見据え捉える方法として、彼には俳句形式があった。そして、これからも対峙していく。