2012年02月01日

森の入口の案内役―神野紗希

秋

 最近、俳句の「選」という側面にスポットを当てた書籍が目立つ。
 ふらんす堂から昨年刊行された『金子兜太×池田澄子』『後藤比奈夫×中原道夫』は、それぞれ、前者の俳句作品から、後者が独断で100句選んで、俎上に上げつつ対談するという、ユニークな趣向の本だ。
 また、同時期に刊行が始まった、同じくふらんす堂の『自句自解ベスト100』シリーズも、池田澄子や小川軽舟、高橋睦郎らが、これまでの作品から100句を選び、見開きに一句ずつ、自句自解をほどこすという読みものだ。
 また『新撰21』『超新撰21』(邑書林)は、筑紫盤井・対馬康子・高山れおな各氏の人選による若手俳人のアンソロジーだったが、昨年、その流れで刊行された週刊俳句編『俳コレ』(邑書林)は、収録作家22人の、自選ではなく他選100句が掲載されている。まだその名を多くは知られていない新人作家の作品を、他者が選んでアンソロジーを編むという発想は、今までなかった。

 こうした「選」に着目する動向は、世界にさまざまな俳句が氾濫している現在、「編集する」ことに対する欲望が増してきているという現れなのかもしれない。『金子兜太×池田澄子』、『俳コレ』などは、他選の魅力に特化している点で、より新鮮な感じを受け取る。いや、「編集への欲望」というのはわたしの穿ちすぎで、単純に、「人が人の俳句を選ぶのって、面白いよね、選んだ人の個性も出るし、選ばれた人の新しい顔も見られるよね」というような、「選も創作なり」の精神を楽しんでいる、ということなのだと理解したほうが、素直だろうか。
 また、こうした「選」が着目されている理由のもうひとつは、その作家について手軽に知ることができる、という点にあるだろう。ある作家を知りたいと思ったとき、全集をひもといてみる、という大掛かりな作業に、いきなりとりかかろうと思える人は、なかなかいない。ちょっと知りたいわ、どんな人なのかしら、というときに、その作家を知るための入り口として、選集が求められている、というのは、おそらく真実だ。


 アンソロジーや選集などの「選」する本の場合、いちばん大切なのは、選ぶ人の技量である。選ばれなかったものは、その本で読むことはできないわけで、この人の選んだものなら間違いないと思える選者でない場合は、その選集を読もうと思い立つことは少ない。
 その点で、岸本尚毅は、信頼するに足る審美眼をもった批評家である。こと「ホトトギス」関係の俳句においては、現在、その素晴らしさを深く理解し、いちばん的確に表現することのできる人だろう。「ホトトギス」の雑詠欄を熟読し、その世界にどっぷり浸かった岸本氏の経験と感覚が駆使されているのが、この本である。
 たとえば、「見えてゐて添水の音の聞えけり 松尾いはほ」の句の解説の後半。

 この句の実態は「添水」と「見え」と「聞え」だけである。一見すると無内容な句である。しかし、この句が描いているのは、身辺に添水がある空間と時間である。空間と時間だけを描いた句なのである。


 高浜虚子の句をはじめとして、「ホトトギス」の句、いや、もっと広げて俳句には、「一見すると無内容な句」というジャンルがある。この「一見すると無内容な句」というのが、評をするときにはいちばん厄介で、大学で文学研究をしていても、このジャンルのものだけは、小説などを研究している人たちに伝わりにくく、またその良さを説明しがたい。
 たとえば「無内容だからいい」という風な評価は、消極的だ。「新しければいい」という評価基準が、「新しいだけではだめだ」という事実をとりこぼしてしまうように、「なんにも言ってないところがいい」という評言では、大切なところを捕まえられていないような感じがあった。そこを岸本さんは、たとえばいはほの句について「空間と時間だけを描いた句」だと、的確に、また積極的に評価した。彼の審美眼と鋭い考察が、摑みだしてきた句の真実である。

 ほかにも、岸本氏の解説というのは、俳句というものの内実が、うすうすと了解されてくるような、そんな解説なのだ。岸本さんが、俳句というものをどう考えているか、が語られている、と言い換えてもいい。もうひとつ、例を挙げてみよう。

「桔梗の花の中よりくもの糸 高野素十」
 句意は明瞭。蜘蛛の糸の片方の端は桔梗のどこかに付着していて、そこからスッと糸が張られているのである。
 素十には「くもの糸一すぢよぎる百合の前」という句もある。山本健吉は「一すぢよぎる」の「線描の確かさ」を評価する(『現代俳句』)。しかし「桔梗の花の中より」という動詞を省略した簡潔で緊密な文体と比べると、「一すぢよぎる」でさえ説明的な感じがする。私は「百合」の句より「桔梗」の句の方が好きである。

 これが一句に対する鑑賞の全文である。タイトでシンプルだ。見開きの、右のページに一句が書かれ、左のページに鑑賞が書かれている。読みやすさはもちろんだが、これだけの短い分量で、的確にその句の良さを表現し、かつ自分の考えまで述べるというのは、並大抵のことではない。文章の背後にある、岸本氏の考察の密度を思う。
 「なるほど、この句はこんなふうに読むのか、たしかにたしかに」「ああ、やっぱりそこがミソですよね、岸本さん」などと相槌を打ちながら読み進めているうちに、「俳句とは何か」「俳句の正体とは、いったいどんなものなのか」という、岸本氏の裏テーマが、だんだん見えてくる。

 「曼珠沙華出水の上にうつりけり 池内たけし」では「自然の威力、妖しさ美しさが、無造作に、素っ気なく詠われている。それが俳句の大きな魅力である」と評価し、「提げくるは柿にはあらず烏瓜 富安風生」では「こういう句を読むと、色や形を描く絵画の写生と、言葉を通じて読者の想像を誘う俳句の写生との違いが理解されると思う。俳句には絵のような描写は不可能だ。そのかわり、絵には描けないような微妙なニュアンスを、言葉によって表現することができる」と、言葉による写生の本質について語り、「天の川枝川出来て更けにけり 鈴木花蓑」では「数時間の凝視の結果が「枝川出来て」という七音で終わってしまうところに、俳句という詩の凄さと哀しさを感じる」と考察する。

 単純に「ホトトギス雑詠選集から岸本尚毅が100句選んで鑑賞した」だけの本ではない。もちろん、どのページから読んでも、どこでやめても面白く、鑑賞の本としてさらりと読むこともできる。しかし、そのようにさらりとした読書の結果、いつの間にか、俳句とはどういうものかということについて、重要なエッセンスを吸収できているような、そんなマジックの潜んだ本なのだ。もし、How to本を探している人がいたら「そんなものを読むよりも、この本を読んだほうが、100倍、俳句のことが分かるよ」と教えてあげたい。


 冒頭で述べた「選」ということに立ちかえってみると、この本は、幾重にも選をくぐりぬけた結果の100句が収録されている。
 まず、「ホトトギス」に投句するときに、作者が、自分の作った句の中から、投句する俳句を選ぶ。そして、投句された中から、「ホトトギス」誌に掲載するものを、毎月、虚子が選ぶ。次に『ホトトギス雑詠選集秋の部』(昭和16年、朝日文庫)に載せるものを、また虚子が厳選する。この時点で、明治41年10月号から昭和12年9月号までの雑詠のうち、秋の部に分類される約三万五千句の中から、千七百句が選抜された。そこからさらに、岸本氏が100句選んだわけである。
 その選句に関して、あとがきにあたる末尾の解説で、岸本氏は次のように述べている。

 「ホトトギス」雑詠自体が厳選ですが、雑詠選集はさらなる厳選の結果です。したがって、その粒ぞろいの中から抽出した本書の百句は、ベスト百という趣旨では毛頭ありません。
 むしろ、虚子選の自由闊達さと間口の広さが理解されるように、出来るだけ多様な作者・作品を取り上げることに努めました。このため有名俳人の名句を取り上げなかった場合もあります。


 アンソロジーというのは「これを読めばわかる」という錯覚を起こさせるが、実際には「これを読めばわかる」ということはありえないわけで、もし本当に理解したければ、岸本氏がそうしたように、雑詠選集そのものにあたるべきなのだ。これはあくまでアンソロジーである。この本を通じて、「ホトトギス雑詠選集」が広く知られ、改めて読まれていくことが、岸本氏の願いのひとつでもあり、アンソロジーというもののもつ役割だろうと思われる。
 とはいえ、まずは楽しく、この本を読めばいい。興味をもてば、その奥へ進むこともできる。その、深い深い、俳句の森の入口の案内役のような、一書である。



2011年12月26日

愛らしい人―神野紗希

金風.jpg
金風は秋風のことであるが秋風では星野椿には似合わない。
(星野高士「おふくろへ」/『金風』栞)

 本の栞で、『金風』という句集名を「凄く華やかで明るい」と喜ぶ、息子の星野高士さん。高士さんのいうとおり、星野椿さんは、天真爛漫ということばがぴったりの愛らしい人だ。俳句の会でごあいさつすると「まあまあ紗希ちゃんよくいらしたわねお元気なの、え、わたし、わたしはこんなちょうしなのよねんじゅうなのよおほほほところで…」という具合で、息つぎもそこらに、明るく返してくださる。そんな椿さんを前にすると、こちらも、なぜかほっとして、顔がほころび、心がやわらかくなるのである。これは、彼女の人柄だけではなく、俳句にもいえることのようだ。

初荷とて大きな苺買ひにけり
立春や月の兎は耳たてて
雪見酒なんのかんのと幸せよ
オホーツクの風に切りたるメロンかな
茹玉子幾つにしようおでん煮る

 こうした句を前にすると、彼女を知らない読者でも、おおらかでプラス思考の、気持ちいい女性を想像することができるはずだ。一句目、お正月になってはじめての買い物で、大きな苺を買った。きっと、もともとは買う予定じゃなかったのだ。けれども目について「あ、これ、いいな、買っちゃお」という心のはなやぎ。いまは苺の季節じゃないし、結構高い値段がついているのだけれど、そこは「お正月だからね!」と自分に言い訳する。すっごく贅沢した気分、よく分かる。
 三句目、「なんのかんの」のくだりを、繰り返しぐだぐだいう人もたくさんいる中で、彼女は、この六文字で済ませて「幸せよ」と言ってのける。これまで、辛いことも腹立たしいこともあっただろうに。そのさっぱりと開き直った態度を前にすると、「雪見酒」という羨むべき状況にも、妬心ではなく、どこか「よかったね」と安堵する気持ちが湧いてくる。
 五句目、おでんを煮ながら、具の中に玉子を幾ついれようか、悩んでいる。ただそれだけのことなのだけれど、その些事が、とっても大切なことのように思える。このおでんを食べる人のことを考えながら作っているのだ。息子はいくつ、夫はいくつ、私はいくつ…。あの子は玉子が好きだったな。人のことを思いやっていると、あたたかい気持ちが湧いてくる。いや、これは一人で食べるのでもいい。そういえば、一人暮らしの身でおでんを作るとき、「今日はふたつ食べて、明日の朝ひとつ、でももしかして食べたくなったときのために、もうひとつ…」などと考えた。ちなみに私はおでんの中で玉子が一番好きだ。ほかにも、玉子が一、二を争うほど好きだという人は、世の中にとっても多いんじゃないだろうか。これは脱線している話のようで、案外、本質にかかわっているような気がする。椿さんの句は、共感というところと密接につながっていると思うからだ。おでんのちくわぶについて言われても(ちくわぶが好きな人ごめんなさい)マイナーな俳句になってしまうが、玉子だからこそ、この句はストレートに共感を呼ぶのだ、きっと。

 『金風』は、これまでに出された五冊の句集からの抜粋が三分の一、残りの三分の二は、平成十六年(第五句集『マーガレット』刊行)以降の作品で占められている。星野椿という人の来し方をおさらいしつつ、現在の彼女を知るのに、最適の一書といえる。

初句会帝国ホテル孔雀の間
酒少しあればさより*の卵とぢ (*漢字です)
朝蟬に急かされて米炊き上る
船上に花火見てゐるこんな日も
日本に四季あり秋を惜しむかな

 最新の、平成二十二年の作品からひいた。「孔雀の間」は立派そうだし、「さよりの卵とぢ」は美味しそう。朝ごはんのお米は粒だっているだろうし、船上に見る花火はきれいだろう。素晴らしいもの、美味しいもの、美しいものを、もうひとまわり大きく見せること。すでに美しいものを、さらに美化すること。これもまた、詩におけるひとつの異化作用なのかもしれないと、椿さんの句を読んでいて、ふと思う。

今日よりも明日が好きなりソーダ水

 そう宣言した彼女の「明日」が、いまここにある。そして、これからも、新たな「明日」が書かれていく。



posted by ふらんす堂 at 16:41| Comment(0) | 星野椿句集『金風』

2011年10月18日

物と虚のすれ合いが奏でる生気 ―関悦史

小島健句集

 小島健『現代俳句文庫67 小島健句集』は既刊句集3冊『爽』『木の実』『蛍光』からの抄出に、その後の作品若干を加えた計400句を収録。解説は師の角川春樹。
 《裸子の尻の青あざまてまてまて》等、馴染みのある句があちこちに散見される。



 以下『爽』抄から

寒鯉のごつとぶつかり煙るかな

やぶからし引けば真昼の匂ふかな

竹林に夕冷が来て痩せにけり

冷し瓜ぶつかり合つて浮きにけり

ふくろふの腿の筋肉見せにけり

虫の音のはるかを父母の歩みをり

鳥獣の闘ひしあと氷りけり

月光に濡れつつ蝉となりにけり

春の雁昔は師弟たたかへり


 「ごつとぶつかり煙る」寒鯉、「引けば真昼の匂ふ」やぶからし、「腿の筋肉」を見せる梟等、ぶつかりあうことで一旦物体の手応えへと還元されながら、まさにその手応えによって虚へと通じる回路そのものとなった生き物たちをとおし、澄んだ生気に満たされた広い世界がたちあがる。「ぶつかり」から「煙る」への、「引けば〜匂ふ」から「真昼」への飛躍がその虚にあたる。
 《虫の音のはるかを父母の歩みをり》《月光に濡れつつ蝉となりにけり》などがこの傾向を代表する佳吟。



 以下『木の実』抄から

灯にうかぶものより汲まれ白魚(しらお)桶

翻車魚(まんぼう)の回游ありき大南風(おおみなみ)

築山を飽かずながめて冷さうめん

手庇の中にをさまり蜃気楼(しんきろう)

木耳(きくらげ)や森の奥まで雨の音

やすやすと鴨を通せり蓮の骨

若草に置かれてくもる管楽器


 直接のぶつかりあいから力感を出していた第一句集『爽』の句に比べると、より精妙な行き交いが組織されているようだ。
 「灯」との触れ合いによって桶から汲まれる「白魚」、「手庇」に限定されることで妙にくっきりと輪郭を得る「蜃気楼」、「若草」の生気を受けてくもる「管楽器」等々。生き物や自然が、楽器や灯などの人為・人工物との肌合いの違いで照しあうことにより、息吹きを感じさせることとなる。



 以下『蛍光』抄から


むらさきの貝が口開く春の雨

   角川照子先生永眠
青柿の葉むらに籠(こも)り昼の月

妻の描く薔薇かがやきぬ薔薇の前

暮れてゆく水に光や秋のこゑ

枯蓮の中敗蓮(やれはす)の匂ひけり

人とゐて空気濃くなる春の闇

妻の手にのせて紫式部の実

どの子にもいそぎんちやくの孤独かな

妻とよく歩くこのごろ心太(ところてん)


 以下「蛍光以後」(「河」)抄から

町に田の残りて秋の澄みにけり

夕星や鯨ぶつかる音がする


 抄出の仕方によるのかもしれないが、「妻」の佳句が増えるのと同時に、自然は再び自然同士でぶつかり合い、質感・量感を高めあうようになる。

 しかし第一句集のときのそれらがあくまで外から観じられていたのに対し、ここでの《むらさきの貝が口開く春の雨》《夕星や鯨ぶつかる音がする》などは、語り手自身の身が、無理なく対象の「むらさきの貝」や「鯨」と相互に浸透しあっている気配がありはしまいか。

 《枯蓮の中敗蓮の匂ひけり》も外から観察している句ではなく、かといって力を込めて実相に見入ろうと務めている句でもない。
 語り手の心身そのものが、「枯蓮」と「敗蓮」、植物という相において生と死がすれあい、際立たせあう幽かな官能の現場となって開けているのである。

 「薔薇」や「紫式部の実」とふれ合う「妻」が、人事詠のべたつきとおよそ無縁な軽やかさを持って句中に立ち現われるのも、そうした心身が基層にあってこそのことなのだろう。


posted by ふらんす堂 at 16:01| Comment(2) | 現代俳句文庫『小島健句集』