
小島健『現代俳句文庫67 小島健句集』は既刊句集3冊『爽』『木の実』『蛍光』からの抄出に、その後の作品若干を加えた計400句を収録。解説は師の角川春樹。
《裸子の尻の青あざまてまてまて》等、馴染みのある句があちこちに散見される。
以下『爽』抄から
寒鯉のごつとぶつかり煙るかな
やぶからし引けば真昼の匂ふかな
竹林に夕冷が来て痩せにけり
冷し瓜ぶつかり合つて浮きにけり
ふくろふの腿の筋肉見せにけり
虫の音のはるかを父母の歩みをり
鳥獣の闘ひしあと氷りけり
月光に濡れつつ蝉となりにけり
春の雁昔は師弟たたかへり
「ごつとぶつかり煙る」寒鯉、「引けば真昼の匂ふ」やぶからし、「腿の筋肉」を見せる梟等、ぶつかりあうことで一旦物体の手応えへと還元されながら、まさにその手応えによって虚へと通じる回路そのものとなった生き物たちをとおし、澄んだ生気に満たされた広い世界がたちあがる。「ぶつかり」から「煙る」への、「引けば〜匂ふ」から「真昼」への飛躍がその虚にあたる。
《虫の音のはるかを父母の歩みをり》《月光に濡れつつ蝉となりにけり》などがこの傾向を代表する佳吟。
以下『木の実』抄から
灯にうかぶものより汲まれ白魚(しらお)桶
翻車魚(まんぼう)の回游ありき大南風(おおみなみ)
築山を飽かずながめて冷さうめん
手庇の中にをさまり蜃気楼(しんきろう)
木耳(きくらげ)や森の奥まで雨の音
やすやすと鴨を通せり蓮の骨
若草に置かれてくもる管楽器
直接のぶつかりあいから力感を出していた第一句集『爽』の句に比べると、より精妙な行き交いが組織されているようだ。
「灯」との触れ合いによって桶から汲まれる「白魚」、「手庇」に限定されることで妙にくっきりと輪郭を得る「蜃気楼」、「若草」の生気を受けてくもる「管楽器」等々。生き物や自然が、楽器や灯などの人為・人工物との肌合いの違いで照しあうことにより、息吹きを感じさせることとなる。
以下『蛍光』抄から
むらさきの貝が口開く春の雨
角川照子先生永眠
青柿の葉むらに籠(こも)り昼の月
妻の描く薔薇かがやきぬ薔薇の前
暮れてゆく水に光や秋のこゑ
枯蓮の中敗蓮(やれはす)の匂ひけり
人とゐて空気濃くなる春の闇
妻の手にのせて紫式部の実
どの子にもいそぎんちやくの孤独かな
妻とよく歩くこのごろ心太(ところてん)
以下「蛍光以後」(「河」)抄から
町に田の残りて秋の澄みにけり
夕星や鯨ぶつかる音がする
抄出の仕方によるのかもしれないが、「妻」の佳句が増えるのと同時に、自然は再び自然同士でぶつかり合い、質感・量感を高めあうようになる。
しかし第一句集のときのそれらがあくまで外から観じられていたのに対し、ここでの《むらさきの貝が口開く春の雨》《夕星や鯨ぶつかる音がする》などは、語り手自身の身が、無理なく対象の「むらさきの貝」や「鯨」と相互に浸透しあっている気配がありはしまいか。
《枯蓮の中敗蓮の匂ひけり》も外から観察している句ではなく、かといって力を込めて実相に見入ろうと務めている句でもない。
語り手の心身そのものが、「枯蓮」と「敗蓮」、植物という相において生と死がすれあい、際立たせあう幽かな官能の現場となって開けているのである。
「薔薇」や「紫式部の実」とふれ合う「妻」が、人事詠のべたつきとおよそ無縁な軽やかさを持って句中に立ち現われるのも、そうした心身が基層にあってこそのことなのだろう。