2011年09月08日

日常句の鮮烈さ―関悦史

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 『雲の座』は「澤」の創刊時からの同人・押野裕(1967年〜)による第1句集。

 句は幾つかの傾向に分かれていて、小澤實の序文がそれらを丁寧に説いているが、まずどうということのない日常のシーンを、季語の斡旋で詩にしてしまう手腕が水際立っている。



石段に折れ炎天のわが影は

桔梗や畳敷なる投票所

ちりとりの蓋あけ落花ざつと捨つ

キオスクの新聞抜くや今朝の秋

囀や醤油さしたる生卵


 《石段に折れ炎天のわが影は》は、「影」の句は採らないと公言していた主宰小澤實に、影を雰囲気ではなく物としてつきつけ採らせたという句。

 《キオスクの新聞抜くや今朝の秋》における、真新しい新聞を引き抜く感触と「今朝の秋」との照応も鮮やかだが、《囀や醤油さしたる生卵》の気味悪さが捨てがたい。文字通りの日常茶飯事、生卵に醤油をさすだけのことが、「囀」となる可能性を根絶してしまう取り返しのつかない暴力的行為のようにも見え、ここでの生卵の透明感と「囀」との近くて遠い絶望的な乖離が組織する明るみは鮮烈。


海老フライ揚げをる夕夏終る

駅弁を肴に酒や秋の雲

茸飯曲物の蓋とりたれば

珈琲の泡もりあがるカンナかな

枯野なりレタスはみ出すハムサンド


 「澤」は全体に食べ物の句が印象的な結社なのだが、これらの句もそれぞれ一見只事と紙一重ながら決定的に異なる極薄の事件性が仕組まれているようだ。


蘂につき歓喜の蜂や腰振りぬ

脇差の金銀光る男雛かな

負鶏を蛇口の水に洗ひをり

亀虫交尾足もて蟻をはらひつつ

残暑なり青き筋ある磧石

十の扉に朝刊ささる寒さかな


 これらは観察眼のしつこさが微小なものの動きから光を引き出す。
 蜂や亀虫の句など、アニミズムとか共感というよりは、じっと見入っていることによるスケール感の狂いや、ゲシュタルト崩壊自体を句における事件として提示しているような気もする。


父母に戦後ありけり豆の花

春の草踏み来たる人妻となるか

黒髪を畳にこぼす朝寝かな

父と乗る汽車なり月のつき来たる


 これらの家族を詠んだ句も一見平明ながら単なる現実をなぞっての再現ではない。「春の草踏み来たる人」の重みから「妻となるか」への飛躍により、出会いというものの持つ或る抜き差しならぬ奇跡性を感じさせたり、あるいは月がついて来る汽車という陳腐化しかねない素材に「父」を介入させることにより、自意識内の閉鎖性を壊して、先の石段を這う影の句と同じように幻想を物のごとく現前化させたりという飛躍の技術が働いている。その飛躍によって含まれた幻想の領域の大きさが、そっくり父や妻への万感の思いとして読者に直観されることになる。


九天より大き蜜柑の落ちにけり

逃げ水を追うてゆくなり敦煌まで

機関庫に十の機関車秋高し

夏富士に腰かけ田子の魚釣らん


 家族の句に限らずつねに或る想像や指向性が働くのが特徴のようで、歴史の彼方の人物を引き出した句も多い。
 《淀君の小袖の鶴や春隣》《幸綱を諭す修司や冬の雲》《砂利踏みて波郷が来たり百日紅》《後醍醐帝宸筆太く黒く涼し》《板の上の多喜二のむくろ額の花》等々がそれだが、これらの句で顕著なのは、遠くの歴史的場面を「想望」しているのではなく、逆に過去の者たちを今ここへ引きずり出して現前しているものとして扱っていることだ。

 現物に特化・限定して提示してみせた「後醍醐帝宸筆」や「淀君の小袖」はともかくとして、「砂利踏みて波郷が来たり」「板の上の多喜二のむくろ」などのフィクションは、すんなり飲み込んでしまっていいものかどうか、少々逡巡を覚える。

 掲出した《九天より大き蜜柑の落ちにけり》も、単に自然の大景を写生したという句ではいささかもなく、これは「九天」という古代中国由来の想像的な言い方と実景との引き合わせによる強引な現前化の句であり、その点では「波郷」や「多喜二」の句と方法的には変わらないのだが、この句や、あるいは《逃げ水を追うてゆくなり敦煌まで》の虚構性が「波郷」や「多喜二」の、講談師が見てきたようなそれと異なる感触を持つのは、特定の人の姿へと句が収斂することなく、遠方・大景へと視線が解消されてゆくベクトルを持つことにより、「想望」や憧憬へと句の内実がぼかし込まれているからではないかと思われる。

 表題句《桐の実や雲の座として爺ヶ岳》にも無論「雲の座として」というひとつの虚構・想像がさしはさまれており、自然の景は、この作者の生理のなかに、単なる主観の押し付けとは異なる次元で絡め取られている。

 前半に並べた日常茶飯事や食べ物の句の鮮やかさは、現前と想像的領域との付き方・離れ方において、吊り合いが取りやすいところから来るものなのだろう。


posted by ふらんす堂 at 11:05| Comment(0) | 押野裕句集『雲の座』