2011年08月08日

『讀本』評 −藤田哲史

9784781403519.jpg
山口昭男さんの第二句集『讀本』が刊行されました。

著者は昭和三十年生まれ。「青」(波多野爽波主宰)、「ゆう」(田中裕明主宰)、「静かな場所」を経て、現在「秋草」主宰。この句集には、「ゆう」の時代から「秋草」創刊までの過去九年間の三百三十句を収めています。

山口さんが描き出すのは、誰もが持っている記憶の共通項です。いつのことか定かではないけれども、かつて確かにあった一瞬。細かい部分が失われても、強い印象をもって思い出される、そんな記憶です。

落ちてゐる影に力や百日紅

「力」は百日紅の影の力であると同時に、記憶そのものの力と言ってもいいかもしれません。

摘草や水の上なる人の声
水槽の灯りむらさき多佳子の忌
後朝の雨に大きなかたつむり
白菊のひよんと蒼のあるところ
降る雨のうしろ明るき冬至かな
龍の玉その一方のあたたかく
明るくて霰の粒の大きくて
冬ざれや喪服の上の割烹着
日脚伸ぶ椀に緑の離乳食
墨の黴硯の黴をおそれけり
魚屋の坐れば秋の燕かな
甕の中からびてをりぬ狩の宿



誰かの記憶と交わるために、自分の記憶を心底信じるところからこの作者の俳句づくりがはじまります。いつか見た、あるいは触れた記憶を、大事に信じること。そしてその記憶は、とても遠く優しいところにあり、その優しさを描き出すために、平易な言葉が多く用いられるようです。

一見、優しく易しい作品を作ることは簡単のように見えますが、この作り方は実はとても難しい。
思い入れが強すぎると、作品が甘い叙情に偏ってしまうし、作り手の記憶の呼び起こし方が足りないと、作品が陳腐になってしまう。バランスのとり方が難しい作り方です。

平易な言葉を使っていても、陳腐な把握ではない、普遍的な詩情を導いてくる。詩人としてのものの見方を試される作り方に、この作者は挑んでいるのです。そして、それがうまくいった作品をいくつかここに挙げました。

<詩人として生きていきたい>(『讀本』あとがきより)

あとがきで、この作者は、いよいよ腰を据えて詩心に浸ることを、しずかながらにも、強く意思表明しています。

posted by ふらんす堂 at 09:05| Comment(0) | 山口昭男句集『讀本』