2011年07月28日

『トンボ消息』評 −藤田哲史

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『トンボ消息』をひもとくと、中表紙の手前に半透明の頁があらわれる。その頁には大学ノートふうのコバルト色の罫線が、水をこぼしたか何かのように滲んでいる。その滲みは、罫線の平行を乱してはいるが、汚いものではなく、むしろ、私には清らかなものに思われた。

(読み手の私には、その滲みが突然の雨によるものか、水遊びによるものか、ふざけているうち川に落ちてしまったことによるものかは明らかでない。が、そのノートの所有者だけが体験した物語がそこにはかならずあり、ノートに擬された詩集の語り部の設定が、詩人自身となっていることを読み手はそこはかとなく感じとる。)

 その詩集の清らかさの原因の一つは、この詩集の装丁の「ノート」のイメージが、「あくまでここにある詩は、たまたま詩人によって書きとめられた一つの事例にしかすぎないのだ」という一回性を強調し、読み手に出会いのよろこびを感じさせてくれることにある。ノートは、記号化された公式が記述されているテキスト(教科書)とは異なり、具体的に条件が与えられた問題をペンで解く場所だ。ノートに擬されたこの詩集は、そのノートの性質通り、記号化された次元の言葉の羅列であることを拒み、パーソナルな思考の痕跡であることを主張する。そうやってひとたび普遍性を少し欠けさせることで、この詩集は肉体の近くに詩をおびきよせ、結果として清らかな詩情を獲得したのだ。


 風も、 ここで待つには
惜しいので、
 サイドミラーを逸れ
    遠くへ消えかかる 園児の 声と、
   緑【あお】く 色づき、――
 いつか破鏡するだろう かたちの 予感 に
向かい、吹いていった


たとえば、この箇所。具体的なエピソードを起点に、より高い次元の感情の揺らぎを記述している。この詩の言葉は、はるかかなたからやってくるのではなく、「ここ」から生まれ、展開されてゆく。そのためか、この詩集には題にある「トンボ」などの昆虫はもちろん、「風」「水」などの抽象的なモチーフも含め、自然のモチーフが数多く登場する。

ここで同時に、『トンボ消息』の詩が古典のなぞり書きになっていないことにも、留意しておきたい。たしかに、その文体は、詩人の野村喜和夫氏が北原白秋の『思ひ出』を例に出すように、クラシックな印象を読み手に与えるのかもしれない。けれども、私自身は、文体自体に「クラシック」を感じはしても、描きだされたものに“郷愁”をさほど感じない。“郷愁”と断じるには、時おり現れる固有名詞(たとえば「甲府」「仙北市角館町」など)が詩の一連を統べるほどの効力を持っておらず、そのことがこの詩集から“郷愁”を抜きとっているからだ。


いつか見た甲府市立図書館の自転車置場でヘルメットを被って立ち話をしていた女生徒たちは
あの詩文を通過する虚構【せかい】をつよく求めていくのだ
いつもヘルメットのおまえたちとの関係のように屈折しながら、生きる意味を投げかけてきた
まるでこちらが生きる意味のないひとであるかのように


再び詩集のなかの一部を抜き出してみる。もし詩人が「甲府市立図書館の自転車置場」と、詳細に場所を提示しても、私は、「甲府」という特定の場所から、イメージを膨らませることはできない。おそらく、「甲府」の「市立図書館」の情感は、私の知っている地方の市立図書館の自転車置場と大きく異なることはないだろうからだ。図書館のたたずまいにしても、―おそらくモダニズムか、ポストモダニズムの様式に則った―どこにでもある公の施設のそれを想起せずにはいられない。そしてその図書館のたたずまいには、格別の地域性や、その土地が持つ歴史性はほとんど反映されていないだろう(そういえばこの詩集には「地方銀行」も登場する)。

それでは、この具体的な地名の記述は、詩のノイズでしかないのか?という問いがあれば、 答えは否。それでもやはり「甲府市立図書館の自転車置場」は、詩の中で語られなければならない。その措辞は、“郷愁”を呼び起こす昔語りではなく、今詩が語られていることを読み手に説得するための一つの手段として存在する。この詩人は、具体的なエピソードと交換可能な世界とのあわいで、「ここ」でしか起こらないスペシャルな出来事とともに、一回性を書きとめようとする意思そのものを書きとめようとした。そのための意志が、ときに理想的な言葉の調べに抗って、不完全で完全なフォルムを与えた。

言葉は、言葉だけであってはならない。詩に隷属させられるべきものだ。怖い夢を見たあとで冷や汗をかいてふるえている子供に、大人は、すかさず、何も言わず子供を抱きとめるのではないだろうか。「ここ」にいるのが一人ではないということを説得するために。私は、これもまた(言葉を使わず体を使った)詩なのではないかと思うことがある。詩情のために表現する行為としての詩があり、言葉はその一つの手段でしかない。『トンボ消息』もまた、詩情のためになされた行為=「詩」であった。


posted by ふらんす堂 at 16:58| Comment(0) | 手塚敦史詩集『トンボ消息』