
1.
飯田橋のショッピングモールの一角に、七夕飾りを見つけた。短冊が用意してあって、誰でも願い事を書いて、笹に吊るせるようにしてある。すでに結えてある短冊には「あの人と仲良くなれますように」「イイ男になれますように」などと、他愛無い願い事が書かれていた。人の願い事を知るのは楽しい。神社で絵馬を見ているときのような気分だ。
そんなふうに、のんびり願い事を眺めていたら、次の短冊を見つけて、一瞬たじろいだ。
「せかいがぜつめつしませんように」
筆跡から、子どもが書いたものらしい。昨今の日本や世界の情勢に、恐怖をおぼえているのだろうか。小さな子どもが、人間全体のことを考えて、まるで世界の人間のことばを代弁しているかのように、祈りをささげている。そのことに驚くと同時に、私は、「せかい」「ぜつめつ」が平仮名で書かれていることに、妙に怖さを感じた。きっと、単純に「世界」「絶滅」の漢字が分からなかっただけだろう。でも、「ぜつめつ」と平仮名で書かれたことで、なにか、本当に恐ろしいものが来るような感覚がしたのだ。
そして、その「ぜつめつ」の短冊を見て、私が思いだしたのは、奥坂まやの最新句集『妣の国』だった。
2.
山桜にんげんが来て穴を掘る
一列ににんげんが行く日の盛
ゆふざくらみんながとほりすぎてゆく
一列ににんげんが行く日の盛
ゆふざくらみんながとほりすぎてゆく
蛇笏の「をりとりてはらりとおもきすすきかな」を例に挙げるまでもなく、平仮名表記の効能は、やわらかくしなやかな印象を与えることだと思っていたのだが、どうやらそれだけでもないということが、奥坂の句を読んでの実感である。
一句目、日本古来の種である桜、山桜のもとに、人がやってきて穴を掘っている。なにを埋めるための穴だろうか。屍かもしれない、とイメージしてしまうのは、「桜」「埋める」というキーワードから、梶井基次郎の短編「桜の樹の下には」を思い出すからだろうか。
人間という単語が「にんげん」と平仮名で書かれていることで、妙な不気味さを感じる。一般的な日本人かつ成人であれば、人間のことを「にんげん」とは書かない。平仮名で書くことで、まるで「人間」という書き方を知らない者が発話しているような、そんな不思議な感覚をもつ。そもそも、人間が、人間を見て「にんげん」というだろうか。普通は、男性であるとか、女性であるとか、老人であるとか、もう少し細かい属性で表現するはずだ。穴を掘る人を「にんげん」と呼ぶ主体は、そのとき、人間の外側にいて、人間を眺めている。
二句目、日盛の中を、人間たちが列をなして、どこかへ向かっている。街をゆくサラリーマンの姿か、学生たちの運動の様子か、軍隊か、ナチスに捕えられたユダヤ人か・・・。「一列」というところに、こんなに暑いのに、序列を崩さない(崩せない)人間たちの、業や悲哀がある。
この句も、人間の表記は「にんげん」。「穀象の群を天より見るごとく」は三鬼の句だったが、この句の主体は、穀象を見るように、「にんげん」を見ている。あたかも、神のように。
三句目、桜が咲く夕暮れ、家路を急ぐ人たち。夕桜のうつくしさに心を奪われて、立ち止まる人もいない。「みんな」という親しげな呼び名で呼び掛けることで、「とほりすぎてゆく」人たちを見送るのみの、主体のさみしさが増幅されている。
生きてゆくということは、「ゆふざくら」を「みんながとほりすぎてゆく」ようなものなのかもしれない、という風に、この句を象徴として読みたくなるのは、全て平仮名表記で書かれていることにも関係している。普通は漢字を使うところを、全て平仮名にすることで、日常使っている言語とは異質な感じを受け取る。どこか抽象的な次元のことを語っているように思えるのだ。
平仮名表記が怖いという感覚は、どこからくるのか。それは、その句の主体がもっている言語感覚が、私たちが日常使っている言語感覚とは異質なものであると感じるからかもしれない。なぜ、この人は「人間」と書かず「にんげん」と書くのか。平仮名にすることで、そこが異質のものに変容し、句の主体は、まるで普通の人間ではなく、ただ言葉を発音しているだけの、虚ろなもののようにも思える。
たとえば、阿部完市の「ローソクもつてみんなはなれてゆきむほん」。これも「蝋燭持って皆離れてゆき謀反」と、漢字で書けるところは漢字に直せば、大きく印象は変わる。しっかり描かれた、想像歴史絵巻のようだ。しかし、平仮名で書くことで、不思議な感触が生まれる。言葉だけが、水の中にばらばらに、ぷかぷか浮いていて、なんとか関係性を保っているような、そんな危うさがあるのだ。この句を発している主体は誰なのか、それがいち人間ではなく、もっと得体の知れないもののような感じがする、平仮名表記は、そんな印象を読者にもたらすこともある。
奥坂の句は、しばしば<巫女性>を持っていると指摘されるが、たとえば「にんげん」と平仮名で書くことに表れているように、句の主体が、ときに人間離れした感覚を持っていることも、こうした指摘と関係してくるだろう。
3.
奥坂まやの句の特徴は、ひとことでいえば、その有無を言わせぬ迫力にある。彼女の句には、まるでいきなり、眼前にズイと人の顔が現れるような、圧倒される迫力がある。すでに人口に膾炙している<万有引力あり馬鈴薯にくぼみあり><地下街の列柱五月来たりけり><兜虫一滴の雨命中す>などの『妣の国』以前の句も、そうだ。平明でおおぶりな詠みかたで、世界の真理や、ものの物質感を捉えている。こうした迫力の句をつくる人は、ほかにあまり見当たらない。さきほどの、平仮名の句も、「にんげん」の語が、圧倒的なインパクトをもって、頭に残る。
ことごとく髪に根のある旱かな
白き壁迫りて昼寝覚めにけり
みんな顔のつぺり月の交差点
いちじく裂く六条御息所の恋
老人が二人サボテンが二本
震災忌どーんどーんと海が鳴る
白き壁迫りて昼寝覚めにけり
みんな顔のつぺり月の交差点
いちじく裂く六条御息所の恋
老人が二人サボテンが二本
震災忌どーんどーんと海が鳴る
これらの句も、相当の迫力を持っている。一句目、マイクロスコープで撮られた頭皮の映像を思い出す。「ことごとく髪に根」と表現されると、頭の中に、一本一本、髪の毛が埋まっているところを想像して、ちょっと怖くなる。リアルすぎて怖いのだ。二句目、昼寝から覚めたときの、追いつめられた直後のような「はっ」とした心地。壁の色が白であることで、清潔感や、空白感も感じ取ることができる。三句目、月に照らされた人々が、みな、顔がのっぺりとして見える、というのは、なんと茫漠とした光景だろうか。さみしい。
四句目、六条御息所なら、嫉妬にいちじくも裂くだろう。いちじくのあの熟れた果実の肉感が、人の体のやわらかさを思わせて、少しグロテスクだ。五句目、老人とサボテンを並べることで、老人のがさがさ感と、サボテンの人間っぽいフォルムの両方があぶりだされる。六句目、「どーんどーん」という、シンプルなオノマトペが、ひとつひとつ、海に真向かう人の体に大きく響く。シンプルだからこそ、怖くて迫力があるという点では、こうしたオノマトペと、先に挙げた平仮名表記は、通い合うものがあるだろう。
この第三句集で奥坂は、その迫力をもって、人の生き死にという大きなテーマに、迫っている。『妣の国』というタイトルであることも、あとがきに「三四歳で俳句を始めたとき、身ほとりの死者は九八歳で亡くなった祖母だけでした。それから今まで、藤田湘子先生、飯島晴子さんを初め、夫の父母、私の父母、親しかった友達も幾人か喪い、死者の世界がとりわけ近く思われるようになりました」とあることからも、生死に向き合う時間の中で作られた句であることがうかがえる。
若楓おほぞら死者にひらきけり
峰雲や死者に聚まる生者の手
墓守は箒と老いぬ藤の花
皺の老人皺の赤子を抱きて春
真青な夏空が首締めにくる
コンチキチンコンチキチン母が死ぬ
峰雲や死者に聚まる生者の手
墓守は箒と老いぬ藤の花
皺の老人皺の赤子を抱きて春
真青な夏空が首締めにくる
コンチキチンコンチキチン母が死ぬ
一句目、「ひらきけり」が、死者への大きな弔いである。対比された若楓に、おそらく何物かが引き継がれて、「おほぞら」の下、大きく巡り巡ってゆくのだ。二句目、棺を囲む葬儀の光景を思った。峰雲の逞しさが、普遍の大きな理のようなものを体現しているようだ。六句目、祇園囃子の「コンチキチン」の繰り返しのあとに、放りだされたように置かれた「母が死ぬ」という動かしがたい事実の言葉。祭の中、にぎやかに全てが通り過ぎてゆく中で、母の死を思うとき、祭の雰囲気と自分が大きく隔たっているようにも思えるし、逆に、こういう祭の場だからこそ、死というものを傍らに感じられるのかもしれない。
奥坂の句は、身近な人間の生死に向き合った結果、それが個々の人間のありようの描写ではなく、大きな摂理、生きるとか死ぬとかいうこと、老いるとか生まれるということ、世界を包む大きなメカニズムを捉えることへと向かっているように、私には思える。
4.
こうした生死へのまなざしは、人間ばかりへ向けられるのではない。
蟻早し蟻早しつと踏まれけり
もも色のほのと水母の生殖器
一隅の白蛾だんだん大きくなる
高熱のわれへ向日葵歌ふなり
ゆふがほはいつも待ちくたびれてゐる
秋澄むや老人象をみつめをり
黒板の屠殺頭数雲の峰
抓まんとして凍蝶を殺めけり
もも色のほのと水母の生殖器
一隅の白蛾だんだん大きくなる
高熱のわれへ向日葵歌ふなり
ゆふがほはいつも待ちくたびれてゐる
秋澄むや老人象をみつめをり
黒板の屠殺頭数雲の峰
抓まんとして凍蝶を殺めけり
「つと」という言葉で閉じられる蟻の命も、「ほの」という言葉で形容される水母の生殖器も、はかなくて、しかしまた、確かに生きていた。全てのものは、生きて、また死ぬ。奥坂の句から、私がときに恐ろしさを感じるのは、生き物たちをめぐる大きなメカニズムを、目をそらさずに捉えているからだ。奥坂の句を通して、生きることや死ぬことに向き合っている。だから怖いし、だから迫力があるし、だから心に深く残る。生死は、私たちが「にんげん」である以上、もっとも大切なテーマだ。
坂道の上はかげろふみんな居る
私たちは、みんな、坂道の途中にいる。先に行った人たちも、この坂の上に、みんな居る。かげろうが立って、その姿はよく見えないけれど、ぼんやりと影が見える気もする。その影にうなずきながら、私たちは、坂の頂上につくその日まで、坂を上る。