2012年12月26日

ひんやりとあたたかい―神野紗希

巣箱
1.
 対中さんの句は、ひんやりとしている。正木ゆう子さんも、この句集の栞文で、対中さんの句から「たっぷりと水を湛えた湖の、静かな真水の気配」を読み取り、「ひんやりと水分を多く含んだ言葉」だと捉えている。集中には、もちろん水や湖の姿を詠んだ句が多い。

みづうみの一すぢ光る浮巣かな
みづうみの北の桜も散りにけり
みづうみの鳥のこゑする飾かな
みづうみの波音長し秋燕

 一句目、湖全体が光を発するのではなく、広い湖に一筋の光が走っているのだという。光をたきすぎると見えなくなってしまう浮巣も、すこし光量を絞ることで、「一すぢ」の光とともに輝き出す。二句目、東西南北のなかでも北を選んだことで、ひんやりとした空気感が漂ってくる。「も」という助詞によって、桜にクローズアップしてしまわずに、あくまで北の桜を遠景にとどめておくことができ、湖全体を大きく捉えることができる。
 三句目、「みづうみの鳥のこゑ」とはどんな声だろうか。声とともに湖を思い浮かべることで、たっぷりと湛えられた湖の水の清々しさが引き寄せられ、正月の気分をより澄んだものにしてくれる。四句目、「みづうみの波音長し」というとき、比較対象にされているのは海だろう。海よりも湖の波音のほうが長いという把握は俳句上に限らず初めて見たが、言われてみれば、海は寄せては引く波であるからある程度のところで引いてしまうのに対し、湖はどこまでも汀へしみわたっていくような息の長さがあるのだろう。秋になってもまだ去りがたくとどまっているように見える燕も、もちろん特にさよならを言うこともなくいつの間にか消えてしまうのだが、いつの間にか消えてしまっているという点で、湖の波音と秋燕とは通い合うところがある。

2.
 例に挙げた句のうち三句は鳥を詠んだ句だった。対中さんの句というのは、ただ単に水や湖を詠んでいるからひんやりとしているわけではなく、そこに生きる小さな命を併せて詠むことで、その小さな体温に対して広い湖の水がひやひやと感じられる、ということなのかもしれない。
 『巣箱』の世界の中で目を凝らしていると、そこに見えてくるのは、小さな小さな命たちだ。

蔓ものの花のわづかに秋日濃し
口重き日なり柊咲きゐたり
夏萩や小さきサンダルぬぎちらし
日輪の白く小さく梅の花
田に小さき黄色き花や夏近し
砂の粒光り小蠅も光りだす

 一句目、蔓ものの花は大きく咲くことはないけれど、それでも小さく咲くその花につるべ落としと言われる秋の日差しが今ありありと当たっている。すぐに消えてしまう秋日のしかし今は濃い光のように、気付かれぬうちに咲いて朽ちてゆく蔓ものの小さな花の命もまた確かに今ここにある。二句目、口の重さと柊の花の軽さの対比がきいている。なんとなく喋る気持ちになれない日に、柊の楚々とした奥ゆかしい小さい花は、それでもかまわないのだと癒してくれているようだ。三句目、小さきサンダルは子どものものだろう。ちゃんと揃えなさいと言われても、ついつい楽しくって脱ぎ散らしてしまう子どもの溌剌とした様子が、残されたサンダルからうかがえて微笑ましい。夏萩の風に揺れる様子も、どこか楽しく溌剌として見えてくる。
 四句目、太陽は大きいという既成概念をくつがえして、白く小さいと言いなした。梅の咲くころの早春のまだ弱々しい日差しの感じをうまく言い当てたものだ。五句目、「子に母にましろき花の五月来る」と詠んだのは三橋鷹女だったが、その白という純潔の色に対して、田の畦に咲く小さな花の黄色はもっと庶民的な親しさをもって目に飛び込んでくる。「夏も近づく八十八夜〜」とついつい歌いたくなる、身の内から湧いてくる明るさがある。六句目、小蠅と並べられるくらいだから、砂の粒もちょっと粗い。砂と小蠅が並列されることで、汚いものと思われがちな蠅にもちょっとした清潔感が漂うのが面白い。

 鼻面に雪つけて栗鼠可愛すぎ

 「ほんと、可愛すぎだよね!」とキャッキャと和したくなるような口語の言いとめが印象的な句だ。栗鼠が愛らしくてたまらないという気持ちがあふれている。

3.
さて、そのように小さな命に目をとめる姿勢は、同じように、ちょっとした変化にも敏感である。たとえば、さきほどまでそこにあって今は去ってしまったものの名残も、見逃さずに一句に仕上げている。

白鳥のきのふ引きたる汀かな
朝顔に雨粒の痕ありにけり
セメントに猫の足跡あたたかし

 一句目、昨日までは飛来してから毎日みずうみをわが物顔で占有していた白鳥たちが、気が付けば北方へ帰ってしまい、いま自分は白鳥のいなくなった初めての日の湖を前にしているというのだ。「汀かな」と、湖の中でも波打ち際を見せることで、何もないところから寄せてくるさざなみのさやけさが見えてきて、さみしさが募る。二句目、雨粒は蒸発したか流れてしまったが、朝顔の色は雨粒のかたちに脱色されている。そんな朝顔、見たことがあると頷かされる。三句目、セメントを流しこんでまだかたまりきってないときに、その上を猫が歩いたのだろう。かつてうっかり歩いたその猫の痕跡が、セメントによってはからずも写し取られたその命の痕跡がまさに「あたたかし」である。
 〈魚市場より春風に吹かれきし〉〈はこべらのひよこはすぐににはとりに〉〈雪のあと星の出てゐる裕明忌〉といった句も、ある瞬間というよりも、時間の流れ、移りゆく変化を捉えようとしているように見える。小さい変化に目をとめると、世界が刻々と変わり続けているということが定かになるのだ。

4.

ひらくたび翼涼しくなりにけり
それぞれにひげ根をもちてあたたかし
一言の大らかにかつ爽やかに

 これらも、やはりこれまでの句と同じで、小さいものにピントを合わせたカメラで世界を見ている句だ。しかし、ちょっと違っているのは、捉えるべき対象がカメラの中におさまりきっていないことである。
 一句目、ひらくたびに翼が涼しくなるという把握だ。風を生むからそれはそうなのだが、翼が涼しくするのではなく、翼が涼しくなるという見方に、風を生み体を運ばなければならない翼という器官のさみしさを見る心地がする。これが何の鳥の翼かは分からない。翼にフォーカスしているので、その翼が生み出す風やその向こうに見える青空があれば十分なのだ。二句目、それぞれにひげ根があることがあたたかいと見ている。「それぞれ」が一体何かは分からない。ヒヤシンスやクロッカスのような水栽培の球根を思い描いたが、引き抜いた何かの野菜でも、雑草でもいいだろう。それぞれの植物が、ひげ根という決してかっこよくはないけれどかわいらしくたくましいものをもっている、その生きる力に春のあたたかさを見出したのだ。これも、ひげ根だけが見えてくれば十分で、本体部分はあまり問題にされていない。
 三句目、誰かの一言が、大らかで、かつ爽やかであったというのだ。「爽やかに俳句の神に愛されて」という対中さんの師・田中裕明の句を思い出すと、田中さんもこのような人だったのかなと思いが飛ぶが、田中さんに限らずこういう人は確かにいるだろう。
たとえば、菫にピントを合わせたレンズで大仏を捉えても、足の裏の一部とか衣服の一断片しか見えない。そのように、小さなものを捉えるレンズで大きなものを見ると、これらの句のようにちょっとシュールで不思議な句になる。その面白さもまた、対中さんの俳句が生み出すエアポケットのような楽しみだろう。

順番に雫してゐる氷柱かな

 横一列に並んでいる氷柱に日が差せば、少しずつ溶けて、一滴ずつ雫を落とす。こちらがぽたりと落ちれば今度はあちらがぽたりというように、雫するにも順番があるのが面白い。氷柱というひんやりとした素材を扱いながらも、この句があたたかさを感じさせるのは、「順番に」の明るさだろう。無生物なのに、順番を守っているようで、まるで生き物のようだ。
 ひんやりしている、なのにあたたかい。対中さんの俳句の魅力は、このパラドックスにありそうだ。


posted by ふらんす堂 at 11:05| Comment(0) | 対中いずみ句集『巣箱』
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