
最近、俳句の「選」という側面にスポットを当てた書籍が目立つ。
ふらんす堂から昨年刊行された『金子兜太×池田澄子』『後藤比奈夫×中原道夫』は、それぞれ、前者の俳句作品から、後者が独断で100句選んで、俎上に上げつつ対談するという、ユニークな趣向の本だ。
また、同時期に刊行が始まった、同じくふらんす堂の『自句自解ベスト100』シリーズも、池田澄子や小川軽舟、高橋睦郎らが、これまでの作品から100句を選び、見開きに一句ずつ、自句自解をほどこすという読みものだ。
また『新撰21』『超新撰21』(邑書林)は、筑紫盤井・対馬康子・高山れおな各氏の人選による若手俳人のアンソロジーだったが、昨年、その流れで刊行された週刊俳句編『俳コレ』(邑書林)は、収録作家22人の、自選ではなく他選100句が掲載されている。まだその名を多くは知られていない新人作家の作品を、他者が選んでアンソロジーを編むという発想は、今までなかった。
こうした「選」に着目する動向は、世界にさまざまな俳句が氾濫している現在、「編集する」ことに対する欲望が増してきているという現れなのかもしれない。『金子兜太×池田澄子』、『俳コレ』などは、他選の魅力に特化している点で、より新鮮な感じを受け取る。いや、「編集への欲望」というのはわたしの穿ちすぎで、単純に、「人が人の俳句を選ぶのって、面白いよね、選んだ人の個性も出るし、選ばれた人の新しい顔も見られるよね」というような、「選も創作なり」の精神を楽しんでいる、ということなのだと理解したほうが、素直だろうか。
また、こうした「選」が着目されている理由のもうひとつは、その作家について手軽に知ることができる、という点にあるだろう。ある作家を知りたいと思ったとき、全集をひもといてみる、という大掛かりな作業に、いきなりとりかかろうと思える人は、なかなかいない。ちょっと知りたいわ、どんな人なのかしら、というときに、その作家を知るための入り口として、選集が求められている、というのは、おそらく真実だ。
2
アンソロジーや選集などの「選」する本の場合、いちばん大切なのは、選ぶ人の技量である。選ばれなかったものは、その本で読むことはできないわけで、この人の選んだものなら間違いないと思える選者でない場合は、その選集を読もうと思い立つことは少ない。
その点で、岸本尚毅は、信頼するに足る審美眼をもった批評家である。こと「ホトトギス」関係の俳句においては、現在、その素晴らしさを深く理解し、いちばん的確に表現することのできる人だろう。「ホトトギス」の雑詠欄を熟読し、その世界にどっぷり浸かった岸本氏の経験と感覚が駆使されているのが、この本である。
たとえば、「見えてゐて添水の音の聞えけり 松尾いはほ」の句の解説の後半。
この句の実態は「添水」と「見え」と「聞え」だけである。一見すると無内容な句である。しかし、この句が描いているのは、身辺に添水がある空間と時間である。空間と時間だけを描いた句なのである。
高浜虚子の句をはじめとして、「ホトトギス」の句、いや、もっと広げて俳句には、「一見すると無内容な句」というジャンルがある。この「一見すると無内容な句」というのが、評をするときにはいちばん厄介で、大学で文学研究をしていても、このジャンルのものだけは、小説などを研究している人たちに伝わりにくく、またその良さを説明しがたい。
たとえば「無内容だからいい」という風な評価は、消極的だ。「新しければいい」という評価基準が、「新しいだけではだめだ」という事実をとりこぼしてしまうように、「なんにも言ってないところがいい」という評言では、大切なところを捕まえられていないような感じがあった。そこを岸本さんは、たとえばいはほの句について「空間と時間だけを描いた句」だと、的確に、また積極的に評価した。彼の審美眼と鋭い考察が、摑みだしてきた句の真実である。
ほかにも、岸本氏の解説というのは、俳句というものの内実が、うすうすと了解されてくるような、そんな解説なのだ。岸本さんが、俳句というものをどう考えているか、が語られている、と言い換えてもいい。もうひとつ、例を挙げてみよう。
「桔梗の花の中よりくもの糸 高野素十」
句意は明瞭。蜘蛛の糸の片方の端は桔梗のどこかに付着していて、そこからスッと糸が張られているのである。
素十には「くもの糸一すぢよぎる百合の前」という句もある。山本健吉は「一すぢよぎる」の「線描の確かさ」を評価する(『現代俳句』)。しかし「桔梗の花の中より」という動詞を省略した簡潔で緊密な文体と比べると、「一すぢよぎる」でさえ説明的な感じがする。私は「百合」の句より「桔梗」の句の方が好きである。
句意は明瞭。蜘蛛の糸の片方の端は桔梗のどこかに付着していて、そこからスッと糸が張られているのである。
素十には「くもの糸一すぢよぎる百合の前」という句もある。山本健吉は「一すぢよぎる」の「線描の確かさ」を評価する(『現代俳句』)。しかし「桔梗の花の中より」という動詞を省略した簡潔で緊密な文体と比べると、「一すぢよぎる」でさえ説明的な感じがする。私は「百合」の句より「桔梗」の句の方が好きである。
これが一句に対する鑑賞の全文である。タイトでシンプルだ。見開きの、右のページに一句が書かれ、左のページに鑑賞が書かれている。読みやすさはもちろんだが、これだけの短い分量で、的確にその句の良さを表現し、かつ自分の考えまで述べるというのは、並大抵のことではない。文章の背後にある、岸本氏の考察の密度を思う。
「なるほど、この句はこんなふうに読むのか、たしかにたしかに」「ああ、やっぱりそこがミソですよね、岸本さん」などと相槌を打ちながら読み進めているうちに、「俳句とは何か」「俳句の正体とは、いったいどんなものなのか」という、岸本氏の裏テーマが、だんだん見えてくる。
「曼珠沙華出水の上にうつりけり 池内たけし」では「自然の威力、妖しさ美しさが、無造作に、素っ気なく詠われている。それが俳句の大きな魅力である」と評価し、「提げくるは柿にはあらず烏瓜 富安風生」では「こういう句を読むと、色や形を描く絵画の写生と、言葉を通じて読者の想像を誘う俳句の写生との違いが理解されると思う。俳句には絵のような描写は不可能だ。そのかわり、絵には描けないような微妙なニュアンスを、言葉によって表現することができる」と、言葉による写生の本質について語り、「天の川枝川出来て更けにけり 鈴木花蓑」では「数時間の凝視の結果が「枝川出来て」という七音で終わってしまうところに、俳句という詩の凄さと哀しさを感じる」と考察する。
単純に「ホトトギス雑詠選集から岸本尚毅が100句選んで鑑賞した」だけの本ではない。もちろん、どのページから読んでも、どこでやめても面白く、鑑賞の本としてさらりと読むこともできる。しかし、そのようにさらりとした読書の結果、いつの間にか、俳句とはどういうものかということについて、重要なエッセンスを吸収できているような、そんなマジックの潜んだ本なのだ。もし、How to本を探している人がいたら「そんなものを読むよりも、この本を読んだほうが、100倍、俳句のことが分かるよ」と教えてあげたい。
3
冒頭で述べた「選」ということに立ちかえってみると、この本は、幾重にも選をくぐりぬけた結果の100句が収録されている。
まず、「ホトトギス」に投句するときに、作者が、自分の作った句の中から、投句する俳句を選ぶ。そして、投句された中から、「ホトトギス」誌に掲載するものを、毎月、虚子が選ぶ。次に『ホトトギス雑詠選集秋の部』(昭和16年、朝日文庫)に載せるものを、また虚子が厳選する。この時点で、明治41年10月号から昭和12年9月号までの雑詠のうち、秋の部に分類される約三万五千句の中から、千七百句が選抜された。そこからさらに、岸本氏が100句選んだわけである。
その選句に関して、あとがきにあたる末尾の解説で、岸本氏は次のように述べている。
「ホトトギス」雑詠自体が厳選ですが、雑詠選集はさらなる厳選の結果です。したがって、その粒ぞろいの中から抽出した本書の百句は、ベスト百という趣旨では毛頭ありません。
むしろ、虚子選の自由闊達さと間口の広さが理解されるように、出来るだけ多様な作者・作品を取り上げることに努めました。このため有名俳人の名句を取り上げなかった場合もあります。
むしろ、虚子選の自由闊達さと間口の広さが理解されるように、出来るだけ多様な作者・作品を取り上げることに努めました。このため有名俳人の名句を取り上げなかった場合もあります。
アンソロジーというのは「これを読めばわかる」という錯覚を起こさせるが、実際には「これを読めばわかる」ということはありえないわけで、もし本当に理解したければ、岸本氏がそうしたように、雑詠選集そのものにあたるべきなのだ。これはあくまでアンソロジーである。この本を通じて、「ホトトギス雑詠選集」が広く知られ、改めて読まれていくことが、岸本氏の願いのひとつでもあり、アンソロジーというもののもつ役割だろうと思われる。
とはいえ、まずは楽しく、この本を読めばいい。興味をもてば、その奥へ進むこともできる。その、深い深い、俳句の森の入口の案内役のような、一書である。