2011年08月17日

週刊俳句掲載分(加筆訂正)―神野紗希

9784781402918.jpg大木あまりの第五句集が出た。『星涼』(ふらんす堂 2010年9月29日)だ。ずっと待っていた句集でもある。

高校時代、俳句の本をほとんど読まなかった私が熟読したのは、大木あまりの『セレクション俳人 大木あまり集』(邑書林)や正木ゆう子『静かな水』(春秋社)だった。

大木あまり
白菜を洗ふ双手は櫂の冷え
後の世に逢はば二本の氷柱かな

正木ゆう子
サイネリア咲くかしら咲くかしら水をやる  
水の地球すこしはなれて春の月


大木も正木も、彼女たちの思念や見たものが、彼女たちの呼吸となって、いきいきと一句に吹き込まれている。定型を守り、季語を使い、滑稽味ももち、俳句のルールとされている事項を守りながら、それでいて、彼女たちがまさに呼吸をしているように、自然な一句に仕上がっている。

その自在さを可能にするのは、技術の高さだ。くわえて、句材の豊富さ。それでいて散漫にならないのは、2人とも、自身のテーマをもっているからだろう。日常に材をとりながら、もうひとつ別の宇宙を抱き込むために、たとえば大木は死生観というテーマを持ち込み、正木は文字通り宇宙を選んだ。

フィギュアスケートを見ていると、点数がとても高いのだけれど、なんだかつまらない滑りをするな、という人がいる。ジャンプとジャンプの間の、ただ滑っているだけの時間が、技と断絶していて、なんとなく「こなしている」という印象を受けるのだ。

でも、ときどき、はっと息をのむような演技をする選手がいて、そういう人は、点数プラスアルファーの、なにか観客をわかせる力を持っている。そんな人には、技術と技術をつなぐ滑らかさや、プログラム全体を統一するテーマ、身のうちからはじき出るようなエネルギーがある。呼吸するように滑るスケーター。それと同じような感覚を、大木や正木の句から感じる。言葉と、季語と、自然と、自我と、時代と、主題と、俗と、聖と・・・すべてのものが一致して、大きなひとつの力になっている。

たとえば、『星涼』の次の1句。

頬杖や土のなかより春はくる


春が土の中から来る、というのは、すこし独断的だ。実際には、春はいろんなところから来る。でも、ここで「土のなかより春はくる」と言い切ったことで、土中の種の見えざる芽吹きを、なまなましく感じることができる。卓に頬杖をついている主体の足元で、ぐんぐんと押し上げるように膨らむ生命エネルギー。そのエネルギーの圧力が、頬杖の下へ向く力とどこかでぶつかって、微妙な力の拮抗を生み出している。

言葉の緩急も巧みに操っている。「頬杖や」と、季語以外の言葉を上5の「や」の前に置いて、残りの12文字で、ゆったりと早春の気分をかもし出している。「なか」「くる」が平仮名になっているのも、「土」「春」の漢字を際立たせる効果があるのみならず、仮名のもつやわらかさが、土のふっくらとした質感をおもわせる効果がある。「土のなかより春はくる」という把握には、独自の発見もあるが、一方で、「頬杖」という所作が、その発見を日常のつながりのなかの自然な出来事として位置づけてくれる。なめらかだ。言葉のたのしみも、共感も、驚きも、人生もある。どんな風にも楽しめる。

ほかにも、彼女の文体は多様だ。〈松の塵ふりかかりたる茸かな〉は、素十ばりのリアリズムだ。「松の塵」で茸の生えている場所のうすぐらさが分かり、「塵ふりかかりたる」の微妙なニュアンスの動詞が、絶妙に茸の汚れ具合を言い当てている。

〈鶏糞の匂ひのなかのチューリップ〉は、チューリップというかわいいものが、「鶏糞の匂ひ」という俗の中にある、俳諧的な面白さがある。美しい洋風玄関の前にあるよりも、少女とともにあるよりも、鶏糞の匂ひの中に立つチューリップこそが、うつくしく明るく感じられるから不思議だ。ここで取り合わせの形をとらず「のなかの」と接続させたことで、ややもすれば鼻につく「チューリップ」と「鶏糞」の対比構造がやわらげられているのも巧みである。

〈逝く夏や魚の気性を玻璃ごしに〉。気性の(激しい)魚を玻璃ごしに、というのが、普通の散文の語順だ。ところが「気性」というものを玻璃ごしにしている、というちょっとあやのある言い方をしているところ、スパイスが効いている。巧いが、それにくわえて、閉じ込められた魚の一所懸命を、どこかかなしい思いで見つめる気分もある。それは、「逝く夏」という、どこか心細い、かなしい季節感によって太くなぞりなおされる気分だ。

〈白靴や激流をよくみるために〉。白靴を履いた人が激流を見ている、という状況だろう。このような言い方をすることで、この白靴が、まるで激流を見に来るためにそろえられたもののような、運命的な気配が加わる。カメラワークもいい。立っているところから下を見ると、みずからの靴と、すぐそこの激流とが、同じ視界の中に見えるだろう。

〈握りつぶすならその蝉殻を下さい〉は、定型感覚すれすれの口語を使うことで、蝉殻を握りつぶさないでほしいという切迫した心持ちが表現されている。〈昭和とは柵を出られぬ雪の馬〉では、昭和という時代を、「柵を出られぬ雪の馬」にたとえたことで、作者の昭和観が現出した。昭和をこんなふうにたとえた言い方は、俳句はもちろん、そのほかのジャンルでも見たことがない。その突飛なたとえに驚くが、しかしひとたび考えてみれば、雪の馬は、遠ければ美しく、そばによればなまぐさいものだ。その特徴が、まさに昭和だともいえる。

〈友癒えよ桔梗撫子葛の花〉では、「桔梗」「撫子」「葛の花」と、秋の花が3つも並べられている。その束ねられた言葉が、そのまま花束となって、病床の友への思いを示している。桔梗、撫子、これでもかと言葉を継がれ、その切迫感に、胸のつまる思いがする。なぜ胸がつまるか、その一方には、どんなに花を並べても、友が癒えるとは限らないからだという察しがあるからかもしれない。

さらに、次のような、死を意識した句や、雛の句は、大木の本領だろう。以前の句集にも、〈この秋や病も組みおく予定表〉(『山の夢』)〈涅槃西風けふ生かされて蛇眠し〉(同)〈遺髪となる髪をのばさむ草の花〉(『雲の塔』)〈蒼猫忌とはわが忌日夏の雨〉(『雲の塔』)といった、死を射程に定めた句や、〈母亡くて雛の黒髪梳きたしよ〉(『火球』)〈正気とは思へぬ顔の雛かな〉(同)〈白髪を許されずをる雛かな〉(同)〈ふりむくをしらざる雛の面かな〉(『雲の塔』)といった、雛を詠んだ句がある。

願はくは滴りこそを死水に
あたたかし長き廊下と魂と
わが死後は空蝉守になりたしよ
死ぬまでは人それよりは花びらに

見つめあふことかなはざる雛かな
雛よりもさびしき顔と言はれけり
さからふを知らざる雛を納めけり
ゆきずりの古き雛ゆゑ忘れ得ず



人間の形をしていながら、魂を持たない雛。雛の句を見ていると、あるときは、ついに分かり合えない人間同士の孤独を感じるし、またあるときは、葬りの比喩のようにも思えてくる。

かりそめの踊いつしかひたむきに


形だけ、ちょっとだけ参加するつもりが、盆踊りの異様な空間のせいなのか、だんだんに真剣になっていく、そのさまを「かりそめ」と「ひたむき」の2語で表現した。「かりそめ」とわかっている。わかっていながら、「いつしかひたむきに」なってしまう。それこそが人間の生なのだといいたくなるのは、〈遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけん〉という、「梁塵秘抄」の文句を思い出すからだろうか。

大木は、ことさら「死」を意識した句を書きながら、悲観的にはならない。日常おとずれるものたちにも親密さをかくさない。とくに、今回の句集では〈けふも来てゆるき糞する小鳥かな〉〈風切つてくるつばくろよおかえりなさい〉〈鵯や元旦くらゐ静かにせよ〉〈涼しさを力にものを書く日かな〉〈蝶よりもしづかに針を使ひをり〉など、より、日常に、自身の心象に、自然や季語が融解してきている句がみられて、興味深かった。それはまさに、「かりそめ」と知っていながら「いつしかひたむきに」なっている、ということのあらわれなのだろう。彼女の句は、その「かりそめ」と「ひたむき」との危ういバランスを、しっかりと踏みしめて立っている。

いい俳句が読めて幸せだ。そう思う。


■週刊俳句(2010年10月10日)掲載分・加筆訂正


posted by ふらんす堂 at 11:58| Comment(0) | 大木あまり句集『星涼』
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: