
金子敦は、食べ物の句の名手である。
この度の第四句集『乗船券』でも、明快ながら当たりの柔らかい、強く切らない詠みぶりによる、紗のかかったような温かみのある句が引きも切らない。
飴玉にさみどりの線春立ちぬ
すぐそこに春の海見ゆオムライス
蜂蜜の白濁したる神の留守
カステラの黄の弾力に春立ちぬ
太巻の端のよれよれ子どもの日
寒鯉にポップコーンの辿り着く
菓子折の縁の金色小鳥来る
のりたまをざくざく振つて豊の秋
「のりたまをざくざく」は、無造作に核心をつく「ざくざく」が、「豊の秋」を嫌味でなく盛り立てるし、「太巻の端のよれよれ」は不恰好さが手作りの品の慕わしさを呼び起こす。
《蜂蜜の白濁したる神の留守》が、この中では句に飛躍が含まれていて、「のりたま」などと並び、一頭地を抜いている。
食べ物を詠むとはいっても、基本的には外観がモチーフになっているものが多い。
《パレットに小さきみづうみ新樹光》など画材を詠んだ句も少なくないことから、作者が実際に絵を趣味にしているのかとも思われる。食べ物の視覚的印象を季感に通じさせる作り方だから、さほどの飛距離はもともと見込めないのだが、にもかかわらず、モダンな明快さと、親密な好ましさとを両立させつつ陳腐化を楽々と免れ、清潔感のある句に仕上げているところが見どころなのだろう。
食べ物の外観には「カステラの黄」があり、「菓子折の縁の金色」がある。このきれいな外観やパッケージを以下のような、ときに絵本的な幻想味をも帯びる句と並べるとき、金子敦の世界が見えてくる。
空深きよりぶらんこの戻り来る
風船のつつつつつつと歩道橋
夕日さす建築中の海の家
月の舟の乗船券を渡さるる
天上の母が落とせし木の実とも
ここでは宇宙も天上も、未知や危険とは無縁の、至極安らかなものとしてある。
つまり食べ物をもっぱらきれいな外観によって詠むという手つきへの偏愛は、作者の生きるこの世界に一枚の紗をかけ、幼少期的な期待の感覚に染め上げられたそれへと灰汁抜きすることによって、絵本のような理想世界と等距離に均し、句のなかに安置するために要請されたものなのだ。《あつちやんと呼ばれてゐたる月見かな》《あたたかや主宰の横に座りゐて》の被保護者的な立ち位置は、そうしたモチベーションが直接現われてしまったものである。
標題句となった《月の舟の乗船券を渡さるる》に、「舟の」の「の」は果たして必要であろうか。「月の舟乗船券を渡さるる」でもいいのではないか。しかし技術的にはともかく、直した形では、この世界にきっぱり別れを告げてすぐに旅立たなければならない風情となる。「の」がそうした意志と切断の厳しさに紗をかけ、きれいにパッケージングし、全てを親和性のもとに包み込む役割を果たしているのである。
パニック障害に悩まされてきたという作者にとり、ことによったら、このパッケージングは単に現実と幻想とを均す“魔術”でもなければ、趣味的なものでもなく、生きていく上での必要と、その表現における可能・不可能のせめぎ合いのなかでおのずと選び取られてきたものなのかもしれない。それが“金子敦の句”にとって最良の実現態であるかどうかとは別に、さしあたりこの“極楽の文学”は、精妙に反復・変奏を重ねていくことになる。
でありながら自己愛に立てこもるような息苦しさをしばしば免れているのが不思議なところだが、それが、被保護者的弱さを感覚の精妙へと置き換え、好ましい対象のみを描くという一つの倫理自体を自己解放(自己空無化にまでは至らない)に直結させていることによるのだとしたら、これも「写生」の一つの展開とはいえるのだろう。
この場合、感覚の精妙さや、表現の滑らかさが、“そうしたものを持つ自分”の露呈に傾けば句はたちまち腐りだす。「清潔」は金子敦の句にとって大事なのだ。食べ物にとってと同様に。
以下、触れられなかった句を少し。
白餡の少し透けたる春の月
子らの声散らかつてゐる花火あと
割箸の匂ひ幽かに冬ざくら
囀りやフランスパンの林立し
ドレッシングの瓶振つてゐる星月夜
出航の汽笛聞こゆる雛の部屋
踊り場の砂乾きたる秋の蝉
函入りの本の重たき春の風邪
卒園の子が覗きこむ兎小屋