2011年12月26日

愛らしい人―神野紗希

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金風は秋風のことであるが秋風では星野椿には似合わない。
(星野高士「おふくろへ」/『金風』栞)

 本の栞で、『金風』という句集名を「凄く華やかで明るい」と喜ぶ、息子の星野高士さん。高士さんのいうとおり、星野椿さんは、天真爛漫ということばがぴったりの愛らしい人だ。俳句の会でごあいさつすると「まあまあ紗希ちゃんよくいらしたわねお元気なの、え、わたし、わたしはこんなちょうしなのよねんじゅうなのよおほほほところで…」という具合で、息つぎもそこらに、明るく返してくださる。そんな椿さんを前にすると、こちらも、なぜかほっとして、顔がほころび、心がやわらかくなるのである。これは、彼女の人柄だけではなく、俳句にもいえることのようだ。

初荷とて大きな苺買ひにけり
立春や月の兎は耳たてて
雪見酒なんのかんのと幸せよ
オホーツクの風に切りたるメロンかな
茹玉子幾つにしようおでん煮る

 こうした句を前にすると、彼女を知らない読者でも、おおらかでプラス思考の、気持ちいい女性を想像することができるはずだ。一句目、お正月になってはじめての買い物で、大きな苺を買った。きっと、もともとは買う予定じゃなかったのだ。けれども目について「あ、これ、いいな、買っちゃお」という心のはなやぎ。いまは苺の季節じゃないし、結構高い値段がついているのだけれど、そこは「お正月だからね!」と自分に言い訳する。すっごく贅沢した気分、よく分かる。
 三句目、「なんのかんの」のくだりを、繰り返しぐだぐだいう人もたくさんいる中で、彼女は、この六文字で済ませて「幸せよ」と言ってのける。これまで、辛いことも腹立たしいこともあっただろうに。そのさっぱりと開き直った態度を前にすると、「雪見酒」という羨むべき状況にも、妬心ではなく、どこか「よかったね」と安堵する気持ちが湧いてくる。
 五句目、おでんを煮ながら、具の中に玉子を幾ついれようか、悩んでいる。ただそれだけのことなのだけれど、その些事が、とっても大切なことのように思える。このおでんを食べる人のことを考えながら作っているのだ。息子はいくつ、夫はいくつ、私はいくつ…。あの子は玉子が好きだったな。人のことを思いやっていると、あたたかい気持ちが湧いてくる。いや、これは一人で食べるのでもいい。そういえば、一人暮らしの身でおでんを作るとき、「今日はふたつ食べて、明日の朝ひとつ、でももしかして食べたくなったときのために、もうひとつ…」などと考えた。ちなみに私はおでんの中で玉子が一番好きだ。ほかにも、玉子が一、二を争うほど好きだという人は、世の中にとっても多いんじゃないだろうか。これは脱線している話のようで、案外、本質にかかわっているような気がする。椿さんの句は、共感というところと密接につながっていると思うからだ。おでんのちくわぶについて言われても(ちくわぶが好きな人ごめんなさい)マイナーな俳句になってしまうが、玉子だからこそ、この句はストレートに共感を呼ぶのだ、きっと。

 『金風』は、これまでに出された五冊の句集からの抜粋が三分の一、残りの三分の二は、平成十六年(第五句集『マーガレット』刊行)以降の作品で占められている。星野椿という人の来し方をおさらいしつつ、現在の彼女を知るのに、最適の一書といえる。

初句会帝国ホテル孔雀の間
酒少しあればさより*の卵とぢ (*漢字です)
朝蟬に急かされて米炊き上る
船上に花火見てゐるこんな日も
日本に四季あり秋を惜しむかな

 最新の、平成二十二年の作品からひいた。「孔雀の間」は立派そうだし、「さよりの卵とぢ」は美味しそう。朝ごはんのお米は粒だっているだろうし、船上に見る花火はきれいだろう。素晴らしいもの、美味しいもの、美しいものを、もうひとまわり大きく見せること。すでに美しいものを、さらに美化すること。これもまた、詩におけるひとつの異化作用なのかもしれないと、椿さんの句を読んでいて、ふと思う。

今日よりも明日が好きなりソーダ水

 そう宣言した彼女の「明日」が、いまここにある。そして、これからも、新たな「明日」が書かれていく。



posted by ふらんす堂 at 16:41| Comment(0) | 星野椿句集『金風』