2011年09月29日

練り上げられた美―神野紗希

蜂の巣マシンガン
雪だるま動かんとして崩れけり

 句集の冒頭に置かれた一句だ。
 いま、眼前に雪だるまが崩れているのは、きっと、彼が動こうとしてしまったからだ。そう断じた句である。世の中には、取り返しのつかないことがときどきある。そんな真理が読みとれる。
 この句、文語が活きている。「雪だるま動こうとして崩れたよ」では、格好がつかない。文語の格調を使っているからこそ、この句は、ファンシーな想像ではなく、真理を見せてくれるのだ。

 この句を読んで思い出したテキストが二つある。
 ひとつは、高柳重信の句、「冷凍魚/おもはずも跳ね/ひび割れたり」。冷凍されて体がかちこちになった魚がなぜか飛びはねてしまって、着地した時に身を打ったからか、ひび割れてしまった。もちろん、リアルにはあり得ないのだが、自分が飛びはねたことで、自分のからだを損なってしまった魚が、なんともかなしい。「世の中には、取り返しのつかないことがときどきある」という真理を、おかしみとともに感じられる句だ。

 もうひとつは、手塚治虫の漫画『火の鳥 未来編』。その名の通り、未来の世界を書いたSFだ。その未来の地球では、地上が汚染されて、人類は地下都市に暮らしている。猿田という世捨て人の博士は、すでに絶滅してしまった動物たちを蘇らせようと、さまざまな動物のクローンを育てることに苦心している。しかしやはり、命を作り出すという壁は厚く、みな、培養液の中を出るとかたちを保てず、溶けて死んでしまうので、保護カプセルのなかでしか生きることができない。猿田は、人型クローンのブラドベリイという青年を息子と呼んでかわいがっていたが、成長して「若きウェルテルの悩み」を読んだ彼は、「自由がほしい」と訴え、とめる博士を説得して、保護カプセルの中から出る。そして、結局、ほかの生き物と同じように、細胞が溶けて、命を落としてしまう。「動かんとして崩れけり」である。

 竹岡一郎という俳人は、見えないものを見る力に長けている。雪だるまの句にしても、雪だるまが実際に動いたところを見たわけでは、もちろんないだろう。崩れている雪だるまから、そういう物語を導き出した。そのことで、雪だるまのからだの不格好さも際立つ。あのずんぐりとした体形は、おおよそ動くのには向いてない。首なんて、からだに載っけてあるだけだ。簡略さが、おかしく、かなしい。

冬眠のものの夢凝る虚空かな

 冬眠のけものたちが見る夢が、虚空に充満しているというのだ。「凝る」とは、ばらばらのものが集まって固まること。大空の、あの何もないように見えるところには、「冬眠のものの夢」がないまぜになって満ちている。「冬眠のものの夢」と「虚空」が響き合うことで、彼らの夢が虚空のように透き通って美しく、また風が吹き抜けていくような、むなしい感触のものなのだと想像できる。また、虚空も、なにもないように思えるけれど、そうした透明な夢たちがひしめきあっているのだと考えると、「在るようで無い、無いようで在る」という真理が見えてくる。
 私たちが見る夢は、たった数時間の出来事だけれど、冬眠している間、彼らはいったい、どんな夢をみているのだろうか。冬眠のけもののからだも、その夢のある虚空も、私にとっては、やはりはるけきもので、それがまさに冬という季節の実感でもある。

いつも夕焼踏切鳴るを覚ゆるは
 
 踏切は、電車が通る時間には常に鳴っているはずなのだけれど、私たちがそれを「覚ゆる」のは、「いつも夕焼」の時間帯だ。いわれてみれば、不思議である。夕焼の時間というのは、一日が終わる感じがして、ふと寂しくなるから、踏切の音にも、心しんみりとするのだろうか。夕焼の電車に乗っているのは、家路につく人々。その人たちの心まで、夕焼けに染み出していくような、そんな切なさを感じる句だ。

虹の根に死者の家ある遠野かな
紀国の谺うるはし黒揚羽
水かけて焚火死なざる釜ヶ崎

 地名を活かした句も面白い。一句目、遠野という土地の霊的なイメージが付されることで、「虹の根に死者の家」があることに、まるで理由があるような気がしてくる。死者の家から立つ虹ならば、なお美しく、なおはかない。虹をより美しく見せるために、他のすべてのことばが奉仕していると見てもいい。二句目、「うるはし」に地への寿ぎがある。「黒揚羽」の黒も、まさにうるわしい。三句目、水をかけてもまたくすぶって炎を立てようとする焚火のたくましさ。「釜ヶ崎」の「釜」が、「焚火」と火のイメージでつながっているところも小粋だ。

俺斃れ明けの切株ひこばゆる

 「俺」という人称によって、どんな人物かが、ある程度特定される。「斃れ」ちゃってるし、ちょっとハードボイルドだ。こうした、人称をわざわざ句に詠み込む身ぶりは、演劇的だ。竹岡の句は、練りあげられ、作り上げられているということが、こんなところからも分かる。斃れてしまった「俺」のそばで、明け方、切り株がひこばえる。いったい、どのくらいの時間が経ったのだろうか。数時間かもしれないし、数百年たっているかもしれない。「切株」の年輪が、その長い時間を示唆している。

 竹岡は、俳句だけではなく、句集のタイトル『蜂の巣マシンガン』も個性的だ。小川軽舟の「よろしい、それがあなたの美しい人生だ」という帯文に代表されるように、この句集は、竹岡の感受した美に満ちあふれている。それは、一般的な美とは必ずしも接さないかもしれない。しかし、一句一句の端々まで、彼の美意識によって統制された言葉が、まさに「美しく」整列しているさまを眺めていると、象牙から削りあげられた彫刻を見ているように、こころの水面がしずかに澄んでくるのである。

不邪淫戒赫々と蟹群るる音
秋繭を煮て百年や釜の映
夜学生故郷印度の笛吹けり
祭あと河童は川を流れけり
御堂筋銀杏地獄銭地獄
雪女自死の少年連れて北へ
勇魚討たれて海流に歌託しけり
傘さして舟にありけり秋の暮



posted by ふらんす堂 at 11:47| Comment(1) | 竹岡一郎句集『蜂の巣マシンガン』

2011年09月16日

滝じゃなくて―西村麒麟

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謎に満ちた俳人がいる、しかも大俳人である。

なんてもったいぶった出だしで初めよう、さて誰の事だと思いますか?

今回紹介させていただくのは、精選句集シリーズの後藤夜半句集『破れ傘』

なーんだ、夜半、別に知っているよ、なんて声が聞こえてきそうです。
そう、「後藤夜半」。
誰もが知っている大俳人です。
ではここで質問、好きな夜半の俳句を教えてください。

条件として、もう一つ、例の滝の句以外で教えて下さい。



いやらしい言い回しで大変失礼しました。
でもどうですか、圧倒的に有名な<瀧の上に水現れて落ちにけり>の他に、何句ぐらいぱっと浮かびましたか?
直系の方々は別として、五句ほど浮かべば良い方ではないでしょうか?

不思議なのは俳句をやっている人(読み手も作り手も)のほぼ全員が、後藤夜半を知っているし、瀧の句も知っています。
それなのになぜ他の句がすらすら出て来ないのでしょう?


正解は、今まで気軽に読めるテキストがなかったから、だと僕は思います。



さて、もう一度言いましょう。
今回紹介させていただくのは、精選句集シリーズの後藤夜半句集『破れ傘』!

夜半には面白い句がたくさんあり、滝の句しか知らないのでは大損です。

瀧の上に水現れて落ちにけり

は、確かに名句である事には間違いないけれど、
これは、もっとも夜半らしい俳句というわけではないと思います。

夜半は、芸術や芸能を深く愛し、関西を愛し、その生涯を過ごした俳人です。
僕は滝の句よりもむしろ、

金魚玉天神祭映りそむ

この句の方がずっと夜半らしい俳句と言えると思います。
賑やかな人の動きが金魚玉にすーっと映り、良き大阪の賑わいを感じさせてくれる句です。
さらにこの<そむ>の二文字に、これから続くお祭の期待感がよく出ています。

夜半の俳句の特色の一つである、歴史や芸術への興味や美意識は次の俳句にも現れています。

寶惠駕の髷がつくりと下り立ちぬ

國栖人(くずびと)の面をこがす夜振かな

祀りある四谷稲荷や夏芝居

御車はうしろさがりや賀茂祭

これらの句は一度や二度ではなく、できれば何度も何度も読んでみて欲しい、何も考えずに読むと通り過ぎてしまう恐れのある句ですが、それではもったいない。
読み手がきちんと感じとろうとすれば、味わい深い句である事に気がつくはずです。


次にユーモアの句。

夜半の句に大声を出して笑うような俳句はありませんが、
暖かい可笑しみのある句をたくさん読む事ができます。
これも夜半の特色としてぜひここに記しておきたい点です。

大顔をむけたまふなる寝釈迦かな

見おぼえのある顔をして袋角

又の名のゆうれい草と遊びけり

山上憶良を鹿の顔に見き

着ぶくれしわが生涯に到り着く

どれも爆笑する事はあり得ませんが、何度読み返してもくすっと楽しい気分になります。
それはどこか、炬燵で蜜柑を食べるような幸福感にも似ている気がします。


そして三つ目の特色は、呼吸のような一句の持つリズム。
僕が夜半の俳句に対して一番好きだと感じるのは、
この不思議で魅力的な俳句のリズムです。

繭玉の揺るるあしたもあさつても

その蝶の去り初蝶といふことを

ゆるがせにあるとは見えぬ牡丹の芽

目をつむりても雨見ゆる安居かな

まるです〜っと息を吸って、また細長く吐く呼吸のような俳句です。
それは僕に真っ白な一本の棒を連想させます。

特に好きな句はこの句。

てのひらにのせてくださる柏餠

「のせてくださる」これはただの間延びではありません。
「のせくれし」なんてのはポンと渡されてあっけないけれど、夜半のこの句は、相手からわたしのてのひらへ、すーっと柏餠が移動している時間を感じます。
この呼吸の使い方は夜半の技量と言って良いでしょう。


僕が夜半の俳句を読んで感じるのは、対象への優しい視線です。
自然に対しても人間に対しても、夜半の俳句を読んでどこかホッとするのは、
夜半が自然を、人間を好きな事が伝わってくるからではないでしょうか。


あなたが一つ、夜半の好きな句を選ぶとすれば、さて、どれでしょうか?

是非この本を読んでみてから選んでみて欲しい。
それはもちろん滝の句でも良いし、そうでなくても良い。
さて、あなたの好きな夜半はどんな夜半だろう?


posted by ふらんす堂 at 16:49| Comment(0) | 後藤夜半句集『破れ傘』

2011年09月08日

日常句の鮮烈さ―関悦史

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 『雲の座』は「澤」の創刊時からの同人・押野裕(1967年〜)による第1句集。

 句は幾つかの傾向に分かれていて、小澤實の序文がそれらを丁寧に説いているが、まずどうということのない日常のシーンを、季語の斡旋で詩にしてしまう手腕が水際立っている。



石段に折れ炎天のわが影は

桔梗や畳敷なる投票所

ちりとりの蓋あけ落花ざつと捨つ

キオスクの新聞抜くや今朝の秋

囀や醤油さしたる生卵


 《石段に折れ炎天のわが影は》は、「影」の句は採らないと公言していた主宰小澤實に、影を雰囲気ではなく物としてつきつけ採らせたという句。

 《キオスクの新聞抜くや今朝の秋》における、真新しい新聞を引き抜く感触と「今朝の秋」との照応も鮮やかだが、《囀や醤油さしたる生卵》の気味悪さが捨てがたい。文字通りの日常茶飯事、生卵に醤油をさすだけのことが、「囀」となる可能性を根絶してしまう取り返しのつかない暴力的行為のようにも見え、ここでの生卵の透明感と「囀」との近くて遠い絶望的な乖離が組織する明るみは鮮烈。


海老フライ揚げをる夕夏終る

駅弁を肴に酒や秋の雲

茸飯曲物の蓋とりたれば

珈琲の泡もりあがるカンナかな

枯野なりレタスはみ出すハムサンド


 「澤」は全体に食べ物の句が印象的な結社なのだが、これらの句もそれぞれ一見只事と紙一重ながら決定的に異なる極薄の事件性が仕組まれているようだ。


蘂につき歓喜の蜂や腰振りぬ

脇差の金銀光る男雛かな

負鶏を蛇口の水に洗ひをり

亀虫交尾足もて蟻をはらひつつ

残暑なり青き筋ある磧石

十の扉に朝刊ささる寒さかな


 これらは観察眼のしつこさが微小なものの動きから光を引き出す。
 蜂や亀虫の句など、アニミズムとか共感というよりは、じっと見入っていることによるスケール感の狂いや、ゲシュタルト崩壊自体を句における事件として提示しているような気もする。


父母に戦後ありけり豆の花

春の草踏み来たる人妻となるか

黒髪を畳にこぼす朝寝かな

父と乗る汽車なり月のつき来たる


 これらの家族を詠んだ句も一見平明ながら単なる現実をなぞっての再現ではない。「春の草踏み来たる人」の重みから「妻となるか」への飛躍により、出会いというものの持つ或る抜き差しならぬ奇跡性を感じさせたり、あるいは月がついて来る汽車という陳腐化しかねない素材に「父」を介入させることにより、自意識内の閉鎖性を壊して、先の石段を這う影の句と同じように幻想を物のごとく現前化させたりという飛躍の技術が働いている。その飛躍によって含まれた幻想の領域の大きさが、そっくり父や妻への万感の思いとして読者に直観されることになる。


九天より大き蜜柑の落ちにけり

逃げ水を追うてゆくなり敦煌まで

機関庫に十の機関車秋高し

夏富士に腰かけ田子の魚釣らん


 家族の句に限らずつねに或る想像や指向性が働くのが特徴のようで、歴史の彼方の人物を引き出した句も多い。
 《淀君の小袖の鶴や春隣》《幸綱を諭す修司や冬の雲》《砂利踏みて波郷が来たり百日紅》《後醍醐帝宸筆太く黒く涼し》《板の上の多喜二のむくろ額の花》等々がそれだが、これらの句で顕著なのは、遠くの歴史的場面を「想望」しているのではなく、逆に過去の者たちを今ここへ引きずり出して現前しているものとして扱っていることだ。

 現物に特化・限定して提示してみせた「後醍醐帝宸筆」や「淀君の小袖」はともかくとして、「砂利踏みて波郷が来たり」「板の上の多喜二のむくろ」などのフィクションは、すんなり飲み込んでしまっていいものかどうか、少々逡巡を覚える。

 掲出した《九天より大き蜜柑の落ちにけり》も、単に自然の大景を写生したという句ではいささかもなく、これは「九天」という古代中国由来の想像的な言い方と実景との引き合わせによる強引な現前化の句であり、その点では「波郷」や「多喜二」の句と方法的には変わらないのだが、この句や、あるいは《逃げ水を追うてゆくなり敦煌まで》の虚構性が「波郷」や「多喜二」の、講談師が見てきたようなそれと異なる感触を持つのは、特定の人の姿へと句が収斂することなく、遠方・大景へと視線が解消されてゆくベクトルを持つことにより、「想望」や憧憬へと句の内実がぼかし込まれているからではないかと思われる。

 表題句《桐の実や雲の座として爺ヶ岳》にも無論「雲の座として」というひとつの虚構・想像がさしはさまれており、自然の景は、この作者の生理のなかに、単なる主観の押し付けとは異なる次元で絡め取られている。

 前半に並べた日常茶飯事や食べ物の句の鮮やかさは、現前と想像的領域との付き方・離れ方において、吊り合いが取りやすいところから来るものなのだろう。


posted by ふらんす堂 at 11:05| Comment(0) | 押野裕句集『雲の座』