2013年01月11日

「咀嚼する眼」が生む物と幻の相克―関悦史

PAISA

 真面目な面持ちをしつつ、いささか影が薄くもあり、己を多く語らず、内心に何らかの思いが押し隠されているでもなく、いや、押し隠されているのかもしれないが、当人もそれが何なのかは判然とつかみがたい、そのような目が捉えたさまざまな物と力の相克・緊張の場、そしてそれが期せずして生み出すユーモアが、さしあたり伍藤暉之『PAISA』の特徴と言えるだろう。それは中村草田男の肉感と激情の詰屈が作り出す厚みとも、あるいは、零落者の位置におのれを固定して外界をうすうすと悲観の中に映し続ける林田紀音夫などともかなり異なる。

日盛りの大杉の間や巨人過ぐ
甘藍は宙にほどかる地中海
大旱の葉書の束の燃ゆるかな
トマトの赤を刷る輪転機玄く銀し
抽斎を咀嚼する眼や大緑陰

 「大杉」や「甘藍」という事物から錯覚や幻想のようにして「巨人」「地中海」が生み出される。大旱のさなかに燃やされる手紙の火のゆらめき、トマトの「赤」と輪転機の「玄」「銀」との擦れ合いから、事物と幻想のはざまを見極めつつ、見極めることで相克を作りだしていくのが、難解な漢字犇めく渋江抽斎を視覚像として「咀嚼」しつつ「大緑陰」の広やかな実在感へと通じさせていく伍藤暉之の「眼」なのだ。《苺潰す斜めの力吾れにあり》《茄子掴む安楽死論者を殴るため》《甘藍を割る雄ごころの白刃あり》など手の力感に訴える句もあるが、これらの背後にも心理はない。力同士の相克の一要素となった己が慎ましく描き込まれているだけである。

蟻の道に滑り台あり昇り行く
耳たぶへ来し蚊と鼓膜相寄りぬ
琴柱すべて倒し直ちに夏痩せす
丁銀の窪みに指頭夏来る

 心理として自覚されるまでには至らない、前言語的な鬱屈や開放が「蟻/滑り台」や「蚊/鼓膜」、「琴柱/夏痩せ」、凹凸の多い有機的形状の銀貨「丁銀」と「指頭」といったものたち同士の、細密にして空気的な希薄さも持つせめぎ合いとして詠まれる。こまごまとした無機物たちが奇妙な生気を帯びていくさまに渋い滑稽味がある。

昼寝に落ちる寸前玉子が顔撫でる
夏至の夜の生贄ならめ三輪車
麗子像どこかに柿を隠したる
水は水に溺るる河口菊まくら
石膏像に目の玉のなき夜なべかな
一椀の血を所望せし枯野かな
霜夜の能面近う近うと遠去かる

 これらは古道具に霊が宿った付喪神を思わせる幻想の世界だが、その背後にも事物と気配との相克が迷宮となりかける地点を探っては咀嚼していく眼の裏付けがあり、沈着である。沈着で、同時に希薄さを含む。《葛の花重すぎて夢覚めにけり》という句もあるが、重すぎれば破綻をきたしてしまうのだ。

難破船並びしごとく夜の稲架
二つの背中を持つ獣に似て夜の藁塚
花野中楽器の如く丘置かれ

 「難破船」や「獣」に見立てられる藁塚。口数少なく感受性の豊かな子供の空想じみた奇怪さでありながら、句としては静謐な味わいを持つ。三句目は「楽器」と「丘」のスケール感の違いこともなく同居しているさまが眩暈を呼ぶ。ここでは直喩は、類似性発見の快感よりも、異次元への扉のような、事物と気配のせめぎ合いの現場としてある。

竹馬に踏まれし土の飢ゑ始まる
牡蠣飯は箸の納得感が大事
湯豆腐を掴める死神など居らず

 冬の句には飢えと触感のモチーフが並ぶ。端的に食うところまで至らず、触感による事物性の再確認に留まるのは、そここそが相克の現場と見定められているからだろう。食われて消滅してしまえば相克は消える。

切株の香を真つ向に春の風邪
野火舌尖牛馬の香り混ぜながら
「海胆の逃亡、支援します」と金環蝕
鳩の首に縦じわ無尽風光る

 春の句は香りと光の句が、粘着する写生眼が生み出す物の重さと、そこから弾かれる虚空的なものとを同時に顕たしめるさまが面白い。
 句集は冬春夏秋の他に「東日本大震災」の章を持つ。

海市暴れノルマン艤装出現す
鳥雲に入りて日本はモノクロに
冴え返る景・問ふ・問ふな・見るな・歩け
地震を留めし人の踏青渦巻けり
瓦礫場に春雪古事記と創世記と
水漬くとも雲進み行く彼岸かな
海雲茂る海の冷たき明るさよ
フクシマの空裏返る海月かな

 奥付によると作者の現住所は都内らしいのだが、句を見ると現場の混乱の感覚が強く出ていて、津波被災地にゆかりがあったと思しい。
 気配や幻視をよく詠みつつも、神話や形而上学の既存のストーリーに身を預けることはしなかった作者ならではの震災詠が並ぶ。通常の写生では太刀打ちしがたい巨大な災難に直面し、作者としても正念場であっただろう。
 一句目の「ノルマン艤装」はバイキング船のような帆船を思い浮かべればいいのだろうか。一見、海市(蜃気楼)の方がただの幻で、そこから出現した船体の方が実体感ありと見えるが、「出現」がただごとではなく、あり得ない幽霊船のようでもある。海市が「暴れ」るという事態が、現実感覚の混乱を繋ぐ接点となることで、震災の衝撃をイメージ化している。二句目、八句目は現実感覚の麻痺を「モノクロ」「空裏返る」と詠む。いずれも隠喩の句であるはずだが、この作者特有の希薄さが、句を心情の鈍重さから引き離している。
 三句目、四句目は、伍藤暉之の方法の根に関わる句ではないかと思う。今まで頼りにしてきた「咀嚼する眼」は、「冴え返る景」に引き寄せられつつ「見るな・歩け」と強制を受けており、「見る/見ない」という選択自体が相克の現場になってしまっているからである。「地震を留めし人」から生ずる「渦巻」とは、「咀嚼する眼」が体内感覚の混乱に引きずり込まれてしまったという事態に他ならない。
 あくまで己の方法に於いて危機と渡り合う営み、その中にあらわれた《水漬くとも雲進み行く彼岸かな》《海雲茂る海の冷たき明るさよ》は一見静謐だが、その底にほとんど物理的な手応えで迫ってくる冷たさを宿し、読み手に迫ってくる。
posted by ふらんす堂 at 13:24| Comment(0) | 伍藤暉之句集『PAISA』

2012年12月26日

ひんやりとあたたかい―神野紗希

巣箱
1.
 対中さんの句は、ひんやりとしている。正木ゆう子さんも、この句集の栞文で、対中さんの句から「たっぷりと水を湛えた湖の、静かな真水の気配」を読み取り、「ひんやりと水分を多く含んだ言葉」だと捉えている。集中には、もちろん水や湖の姿を詠んだ句が多い。

みづうみの一すぢ光る浮巣かな
みづうみの北の桜も散りにけり
みづうみの鳥のこゑする飾かな
みづうみの波音長し秋燕

 一句目、湖全体が光を発するのではなく、広い湖に一筋の光が走っているのだという。光をたきすぎると見えなくなってしまう浮巣も、すこし光量を絞ることで、「一すぢ」の光とともに輝き出す。二句目、東西南北のなかでも北を選んだことで、ひんやりとした空気感が漂ってくる。「も」という助詞によって、桜にクローズアップしてしまわずに、あくまで北の桜を遠景にとどめておくことができ、湖全体を大きく捉えることができる。
 三句目、「みづうみの鳥のこゑ」とはどんな声だろうか。声とともに湖を思い浮かべることで、たっぷりと湛えられた湖の水の清々しさが引き寄せられ、正月の気分をより澄んだものにしてくれる。四句目、「みづうみの波音長し」というとき、比較対象にされているのは海だろう。海よりも湖の波音のほうが長いという把握は俳句上に限らず初めて見たが、言われてみれば、海は寄せては引く波であるからある程度のところで引いてしまうのに対し、湖はどこまでも汀へしみわたっていくような息の長さがあるのだろう。秋になってもまだ去りがたくとどまっているように見える燕も、もちろん特にさよならを言うこともなくいつの間にか消えてしまうのだが、いつの間にか消えてしまっているという点で、湖の波音と秋燕とは通い合うところがある。

2.
 例に挙げた句のうち三句は鳥を詠んだ句だった。対中さんの句というのは、ただ単に水や湖を詠んでいるからひんやりとしているわけではなく、そこに生きる小さな命を併せて詠むことで、その小さな体温に対して広い湖の水がひやひやと感じられる、ということなのかもしれない。
 『巣箱』の世界の中で目を凝らしていると、そこに見えてくるのは、小さな小さな命たちだ。

蔓ものの花のわづかに秋日濃し
口重き日なり柊咲きゐたり
夏萩や小さきサンダルぬぎちらし
日輪の白く小さく梅の花
田に小さき黄色き花や夏近し
砂の粒光り小蠅も光りだす

 一句目、蔓ものの花は大きく咲くことはないけれど、それでも小さく咲くその花につるべ落としと言われる秋の日差しが今ありありと当たっている。すぐに消えてしまう秋日のしかし今は濃い光のように、気付かれぬうちに咲いて朽ちてゆく蔓ものの小さな花の命もまた確かに今ここにある。二句目、口の重さと柊の花の軽さの対比がきいている。なんとなく喋る気持ちになれない日に、柊の楚々とした奥ゆかしい小さい花は、それでもかまわないのだと癒してくれているようだ。三句目、小さきサンダルは子どものものだろう。ちゃんと揃えなさいと言われても、ついつい楽しくって脱ぎ散らしてしまう子どもの溌剌とした様子が、残されたサンダルからうかがえて微笑ましい。夏萩の風に揺れる様子も、どこか楽しく溌剌として見えてくる。
 四句目、太陽は大きいという既成概念をくつがえして、白く小さいと言いなした。梅の咲くころの早春のまだ弱々しい日差しの感じをうまく言い当てたものだ。五句目、「子に母にましろき花の五月来る」と詠んだのは三橋鷹女だったが、その白という純潔の色に対して、田の畦に咲く小さな花の黄色はもっと庶民的な親しさをもって目に飛び込んでくる。「夏も近づく八十八夜〜」とついつい歌いたくなる、身の内から湧いてくる明るさがある。六句目、小蠅と並べられるくらいだから、砂の粒もちょっと粗い。砂と小蠅が並列されることで、汚いものと思われがちな蠅にもちょっとした清潔感が漂うのが面白い。

 鼻面に雪つけて栗鼠可愛すぎ

 「ほんと、可愛すぎだよね!」とキャッキャと和したくなるような口語の言いとめが印象的な句だ。栗鼠が愛らしくてたまらないという気持ちがあふれている。

3.
さて、そのように小さな命に目をとめる姿勢は、同じように、ちょっとした変化にも敏感である。たとえば、さきほどまでそこにあって今は去ってしまったものの名残も、見逃さずに一句に仕上げている。

白鳥のきのふ引きたる汀かな
朝顔に雨粒の痕ありにけり
セメントに猫の足跡あたたかし

 一句目、昨日までは飛来してから毎日みずうみをわが物顔で占有していた白鳥たちが、気が付けば北方へ帰ってしまい、いま自分は白鳥のいなくなった初めての日の湖を前にしているというのだ。「汀かな」と、湖の中でも波打ち際を見せることで、何もないところから寄せてくるさざなみのさやけさが見えてきて、さみしさが募る。二句目、雨粒は蒸発したか流れてしまったが、朝顔の色は雨粒のかたちに脱色されている。そんな朝顔、見たことがあると頷かされる。三句目、セメントを流しこんでまだかたまりきってないときに、その上を猫が歩いたのだろう。かつてうっかり歩いたその猫の痕跡が、セメントによってはからずも写し取られたその命の痕跡がまさに「あたたかし」である。
 〈魚市場より春風に吹かれきし〉〈はこべらのひよこはすぐににはとりに〉〈雪のあと星の出てゐる裕明忌〉といった句も、ある瞬間というよりも、時間の流れ、移りゆく変化を捉えようとしているように見える。小さい変化に目をとめると、世界が刻々と変わり続けているということが定かになるのだ。

4.

ひらくたび翼涼しくなりにけり
それぞれにひげ根をもちてあたたかし
一言の大らかにかつ爽やかに

 これらも、やはりこれまでの句と同じで、小さいものにピントを合わせたカメラで世界を見ている句だ。しかし、ちょっと違っているのは、捉えるべき対象がカメラの中におさまりきっていないことである。
 一句目、ひらくたびに翼が涼しくなるという把握だ。風を生むからそれはそうなのだが、翼が涼しくするのではなく、翼が涼しくなるという見方に、風を生み体を運ばなければならない翼という器官のさみしさを見る心地がする。これが何の鳥の翼かは分からない。翼にフォーカスしているので、その翼が生み出す風やその向こうに見える青空があれば十分なのだ。二句目、それぞれにひげ根があることがあたたかいと見ている。「それぞれ」が一体何かは分からない。ヒヤシンスやクロッカスのような水栽培の球根を思い描いたが、引き抜いた何かの野菜でも、雑草でもいいだろう。それぞれの植物が、ひげ根という決してかっこよくはないけれどかわいらしくたくましいものをもっている、その生きる力に春のあたたかさを見出したのだ。これも、ひげ根だけが見えてくれば十分で、本体部分はあまり問題にされていない。
 三句目、誰かの一言が、大らかで、かつ爽やかであったというのだ。「爽やかに俳句の神に愛されて」という対中さんの師・田中裕明の句を思い出すと、田中さんもこのような人だったのかなと思いが飛ぶが、田中さんに限らずこういう人は確かにいるだろう。
たとえば、菫にピントを合わせたレンズで大仏を捉えても、足の裏の一部とか衣服の一断片しか見えない。そのように、小さなものを捉えるレンズで大きなものを見ると、これらの句のようにちょっとシュールで不思議な句になる。その面白さもまた、対中さんの俳句が生み出すエアポケットのような楽しみだろう。

順番に雫してゐる氷柱かな

 横一列に並んでいる氷柱に日が差せば、少しずつ溶けて、一滴ずつ雫を落とす。こちらがぽたりと落ちれば今度はあちらがぽたりというように、雫するにも順番があるのが面白い。氷柱というひんやりとした素材を扱いながらも、この句があたたかさを感じさせるのは、「順番に」の明るさだろう。無生物なのに、順番を守っているようで、まるで生き物のようだ。
 ひんやりしている、なのにあたたかい。対中さんの俳句の魅力は、このパラドックスにありそうだ。


posted by ふらんす堂 at 11:05| Comment(0) | 対中いずみ句集『巣箱』

2012年05月28日

きれいな食べ物たちの世界―関悦史

乗船券.jpg

 金子敦は、食べ物の句の名手である。
 この度の第四句集『乗船券』でも、明快ながら当たりの柔らかい、強く切らない詠みぶりによる、紗のかかったような温かみのある句が引きも切らない。

飴玉にさみどりの線春立ちぬ
すぐそこに春の海見ゆオムライス
蜂蜜の白濁したる神の留守
カステラの黄の弾力に春立ちぬ
太巻の端のよれよれ子どもの日
寒鯉にポップコーンの辿り着く
菓子折の縁の金色小鳥来る
のりたまをざくざく振つて豊の秋

 「のりたまをざくざく」は、無造作に核心をつく「ざくざく」が、「豊の秋」を嫌味でなく盛り立てるし、「太巻の端のよれよれ」は不恰好さが手作りの品の慕わしさを呼び起こす。
 《蜂蜜の白濁したる神の留守》が、この中では句に飛躍が含まれていて、「のりたま」などと並び、一頭地を抜いている。
 食べ物を詠むとはいっても、基本的には外観がモチーフになっているものが多い。
 《パレットに小さきみづうみ新樹光》など画材を詠んだ句も少なくないことから、作者が実際に絵を趣味にしているのかとも思われる。食べ物の視覚的印象を季感に通じさせる作り方だから、さほどの飛距離はもともと見込めないのだが、にもかかわらず、モダンな明快さと、親密な好ましさとを両立させつつ陳腐化を楽々と免れ、清潔感のある句に仕上げているところが見どころなのだろう。
 食べ物の外観には「カステラの黄」があり、「菓子折の縁の金色」がある。このきれいな外観やパッケージを以下のような、ときに絵本的な幻想味をも帯びる句と並べるとき、金子敦の世界が見えてくる。

空深きよりぶらんこの戻り来る
風船のつつつつつつと歩道橋
夕日さす建築中の海の家
月の舟の乗船券を渡さるる
天上の母が落とせし木の実とも

 ここでは宇宙も天上も、未知や危険とは無縁の、至極安らかなものとしてある。
 つまり食べ物をもっぱらきれいな外観によって詠むという手つきへの偏愛は、作者の生きるこの世界に一枚の紗をかけ、幼少期的な期待の感覚に染め上げられたそれへと灰汁抜きすることによって、絵本のような理想世界と等距離に均し、句のなかに安置するために要請されたものなのだ。《あつちやんと呼ばれてゐたる月見かな》《あたたかや主宰の横に座りゐて》の被保護者的な立ち位置は、そうしたモチベーションが直接現われてしまったものである。
 標題句となった《月の舟の乗船券を渡さるる》に、「舟の」の「の」は果たして必要であろうか。「月の舟乗船券を渡さるる」でもいいのではないか。しかし技術的にはともかく、直した形では、この世界にきっぱり別れを告げてすぐに旅立たなければならない風情となる。「の」がそうした意志と切断の厳しさに紗をかけ、きれいにパッケージングし、全てを親和性のもとに包み込む役割を果たしているのである。
 パニック障害に悩まされてきたという作者にとり、ことによったら、このパッケージングは単に現実と幻想とを均す“魔術”でもなければ、趣味的なものでもなく、生きていく上での必要と、その表現における可能・不可能のせめぎ合いのなかでおのずと選び取られてきたものなのかもしれない。それが“金子敦の句”にとって最良の実現態であるかどうかとは別に、さしあたりこの“極楽の文学”は、精妙に反復・変奏を重ねていくことになる。
 でありながら自己愛に立てこもるような息苦しさをしばしば免れているのが不思議なところだが、それが、被保護者的弱さを感覚の精妙へと置き換え、好ましい対象のみを描くという一つの倫理自体を自己解放(自己空無化にまでは至らない)に直結させていることによるのだとしたら、これも「写生」の一つの展開とはいえるのだろう。
 この場合、感覚の精妙さや、表現の滑らかさが、“そうしたものを持つ自分”の露呈に傾けば句はたちまち腐りだす。「清潔」は金子敦の句にとって大事なのだ。食べ物にとってと同様に。
 以下、触れられなかった句を少し。

白餡の少し透けたる春の月
子らの声散らかつてゐる花火あと
割箸の匂ひ幽かに冬ざくら
囀りやフランスパンの林立し
ドレッシングの瓶振つてゐる星月夜
出航の汽笛聞こゆる雛の部屋
踊り場の砂乾きたる秋の蝉
函入りの本の重たき春の風邪
卒園の子が覗きこむ兎小屋



posted by ふらんす堂 at 11:06| Comment(7) | 金子敦句集『乗船券』